その夜は凍てつく寒さだった。部屋に着くと、室温は2度しかない。手や足はかじかみ、冷凍食品のように固まっていた。
時計の針は夜中の2時を指している。ストーブやこたつ、電気カーペットをつけて暖をとると、少し落ち着いた。彼はこたつの中でしきりに指を揉み、ほぐす。
少しの間、彼ら三人は黙ってそれぞれ物思いに耽っていた。いや、彼以外は単に体を温めていただけかもしれない。ひとりはおもむろに「もう寝る」と言って横になるとすぐに寝息を立てはじめた。
ひとり寝てしまったので部屋の明かりを暗くすると、彼女と二人きりになった。彼女は紅い縁の眼鏡を、右手の人差し指の背中で持ち上げると、控えめな笑顔を作りながら彼に話しかけた。「さっき車の中で話してたことだけど、きいてもいい?」。
「どうぞ」と彼は答える。しかし、しばらく彼女は何もきいては来なかった。彼女は慎重に何かを整理しているような顔で宙を見詰めている。
沈黙と静寂。似て非なるものが二人の間に緊張の糸を少しだけ張らせる。彼は黙って彼女の問いを待ち続けた。
「長く生きていると色々なことが起きる。楽しいことや辛いこと。間違ったことや正しいこと」
彼女は問いではなく、話を始めた。彼らはこの部屋に来る前の車の中で、互いの近況や夢について話をしていた。その中でも彼のものは絶望に満ちていて、聞き終えると皆閉口してしまったのだ。
「みんな普通は自分のすることを正しいと信じて行う。その行いは必ず正しい結果が訪れるはずだって。でも結果的に、結構違っちゃったりするよね」
彼の絶望の原因は現実的にはたくさんあった。財布を落としたとか、恋人にフラれたとか、会社を辞めたとか。些細なことから大きなことまで、彼の近況には起こっていた。
「でもやっぱり正しいと思うことをするのは正しいと私は思うよ。結果って、さいころの目みたいなもので当てにならない。大事なのは正しいことをその時にしたっていう事実なんだと思うの」
彼の近況を聞いて皆が閉口してしまったのは、彼の落ち込み様にあった。たしかに笑い話ではないのだが、もう長い付き合いなのだからそれくらいの余裕は欲しいところ。でも彼は一息に話し終えると俯いたまま黙ってしまったのだ。
「私ね、後先のことは考えないようにしてる。私もね、考えすぎて一時期は鬱になったことがあるの。同じことを原因から結果までを3回くらい考えちゃう方だから」
彼女は仕事中も笑顔を絶やさない。だから彼は意外に感じた。気がつくと、こたつの中の彼の指は温まり始めていた。
「診療内科に通って処方された薬を飲みながら、自分や自分の行いにこだわるのを辞めたの。きりがないし、結果が出る前に、または結果が出てから、あれこれ検証しても何も変わらないんだもの。先のことは予測出来ないし、前のことはどうにもならないでいいじゃないかって」
部屋は薄暗かった。車が近くを通る度に窓からヘッドライトの光が差し込んでくる。彼は黙って彼女の言葉を何度も頭の中で繰り返しながら咀嚼しようとしていた。
「こういう風に考えるようにしたの。自分も含めてたくさんの人が幸せになれるような正しいと思えることをしよう。その時にそう思える正しいことをし続けようって」
彼女はニコッと彼に笑顔を向けた。彼もつられて笑顔になる。でも彼の笑顔は不自然だった。
「間違っていたら反省するだけ。正しかったら喜ぶの。それと自分だけじゃなく、たくさんの人のことを考えるように変えたら、上手く生きられるようになった」
彼は感じた。彼女の話を敬意を持って聞くことができる。でも自分には真似できないと直感してしまう。
「ごめん。僕は結局エゴイストなんだよ、とても。君の話を聞いて気付いた。上手く行きそうにない」
「いいよ。私は私にできることを出来る限りしてるだけだから。元気出してね」
「ありがとう」
それきり話は途絶えた。彼女も横になり、彼だけが起きている。時間は午前4時半を過ぎていた。
彼はその後もずっと考えつづけた。彼女のようになりたいとも考えてみた。でも結局それは彼にとって偽善的な希望でしかなかった。
朝になり、皆それぞれに仕事の支度に取り掛かった。その間、彼女は昨夜のことを一言も口にしなかった。新しい一日が幕を開けようとしているのだ。
外に出ると、強烈な朝陽が降り注ぎ、彼は眩しそうに目を細めた。