続・衣装の意匠
・・・舞台の上で「衣装」を着てしまうと、客と同じ高さに立てなくなる。
要はキャラショーみたいになってしまう。
それはそれでいい。
それはそれでいいし、子どもから見たら差は無いに等しいかもしれない。
でも「オタクでない大人」には受け入れられなくなってしまう。
それはつまり、世間的に見て「さむい」ということ。「オタクのさむいごっこ遊び」になってしまうのが、俺は怖い。もとアンチオタクだから、その「さむさ」がわかってしまうから、怖い。
逆にその「さむさ」をネタにするようなストーリーなら楽しめるけど・・・。(例えばジャージマンの「上着を脱いだだけじゃないか」みたいな)
理屈を言えば、「子どもの目線で考える」のと「子どもと同じレベルになる」のは違う。
ジャージマンは「アンチヒーローヒーロー」だった。かっこよさとは何か、強さとは何か、考えさせてくれるヒーローだった。ヒーローの「イメージとしてのヒーロー性」をギャグにして貶めることによって、真のヒーロー性を引き出していた。電王のキャッチフレーズである「最弱のライダー」というのも、間違いなくそこを狙っている。
「カッコよさ」は、常に「ナルシシズム」や「でしゃばり」という悪評に繋がる危険性を孕んでいる。
例えば「わび」だとか「さび」だとか「渋い」だとか「いぶし銀」だとか「キモカワ」だとか「ちょい悪」だとかいう概念は全て、ストレートな「カッコよさ」を怖れた結果生まれたものである。
この国では「いい大人」が目立つことは悪であるから、控えめにカッコつけるのがコツなのである。ちょっとズラすのがイケてるのである。「俺レッドやるー」というのは子どもなのである。おっさんはすべからくイエローを選ぶべきなのである。全員イエローのカレーマンが一般に受ける所以もそれなのである。
「いい大人」はヒーローにはならない。この大前提を覆さねばならない。これができなければ「オタクのさむいごっこ遊び」である。ジャージマンはできていた。オマツリマンはどうか。
もちろん、この了見の狭い常識に無理して付き合う必要は無い。しかし、だからと言って「どうせ俺たちいい大人じゃないもーん」と開き直るだけでは「子どもと同じレベル」だと思う。あくまで観にきてくれた人にとって実のあるショーを作るべきだと思う。ナックルはナックルをすべきであってテレビのヒーローになってはいけないと思う。ライヴという「場」に頼りすぎてはいけないと思う。世間にはライヴ感の無いライヴが吐いて捨てるほどある。
そしてこれはショーのみならず、あらゆる「ものを作る人」に共通する一つのテーマだと思う。自分のためか、見聞きする人のためか・・・。
バランスを崩せばカッコよさも実も失する。
鬱屈の味
久し振りに、中学校で勤めていたときの生徒から相談のメールがきた。
大学受験のことかと思ったら、「失恋した~」だって。勉強が手につかないらしい。
ほほえましく思った。
当人にすれば相当の苦痛なのだろう。わかるわかる。知ってる知ってる。・・・でも、ほほえましい。そう思ってしまった。
・・・自分ももうそろそろおっさんなのかもしれない。
と、思った。
自分はまだ思春期真っ只中だ・・・と、ちょっと前まで言っていたが、いやいやもう。
ウジウジすることは未だにあれど、あれほどの甘さはもう味わえまい。
衣装の意匠
ダメかと思われていたファイヤーパターン等も大丈夫そう だということで、順調に進んでいるこちら衣装チームです。って、ワタクシはもっぱら指示を出すだけ。
すでに昨夜、波と雲の型を作ったようで、今日あたり生地を買いにいってるのかしら?・・・ってな状況。みなさん土曜日の会議お楽しみに。
さてそれにしてもあんまり順調にいってると、心配になってくる。何が?・・・いやいや、なんというか、その、カッコよくなりすぎてしまうことが。
カッコよくて強そうなヒーローが、見た目通りに活躍しても、なんにも面白くない。そんなことないという方はまたカブトを見ていればよい。私はあくまで電王がよい。ってそういう話ではない。
身近なヒーローでいたい。ただそれだけ。
・・・・・・・いやうそ。照れ隠しもある。
普通にヒーローな衣装着ちゃってたら、普通にコスプレしてるだけみたいに、普通の人には見えるから。あくまでギャグにしておかないと、身が持たない。
・・・あー、純粋じゃないんだなあ、自分。







