拡散するロック
暇なので物語らんとすれど語る事無し。
などと言い訳してるうちに、若年の輩が頭上を飛んでいく様見え、なんだかなあと。まあいいけど。そんな今時。
自分自身に困っちゃっているのは二十代後半から三十代前半の男子ばかりだ。所謂今時のヤングは迷わず書くし歌うし働く。そして我々の頭上を飛び越えていく。どうやら時代が一山越えたらしい。
我々は「表現」に行き詰っていた。文学は既に死に、ロックも死に、新しいものを産み出すには、新しい文体、新しい媒体が必要だと感じていた。あらゆる土地が開拓され、あらゆる道が舗装されてしまっているように見えた。その時「オリジナリティ」という言葉は高嶺にあり、軽々しく発することもできぬものであった。
しかし舗装された道しか知らないヤングには、それは自然であったのだ。彼らはただ書きたいから書き、歌いたいから歌う。開拓された土地を有効に利用し、舗装された道を迷わず進む。「オリジナリティ」など追い求めなくても楽しいから、いいのだ。
彼らにしたら「文学」やら「音楽」やらにこだわる必要も無いらしく、ブログ本や携帯小説が台頭し、エアギターだとかペン回しだとかが世界競技になって、「神」がわさわさと現れた。
もし「表現したい欲求」がアイデンティティの模索からの産物だとすれば、彼らの方向性は間違ってはいない。むしろ頑なに「文学」「音楽」しようとしていた我々こそ、ただ見栄を張り人の上に立とうとしていたに過ぎず、「オリジナリティ」の創造とは程遠いところにいたのだ。やんぬるかな。
文化だとか芸術だとか文学だとかロックだとかいうものは、実は死んだというより「拡散」し、個人のものとなった。このことを直感的に理解できているものだけが今、成功している。
我々はただ指を咥えて羨ましがるしかないのだろう。
あるいは往年のバンドの復活に「今」を忘れ、またあるいはこうしてブログに世の中云々的な事を書いてささやかな表現実行とし、軽い自己陶酔の中眠りに就くか。
新人
筋肉少女帯の10年ぶりのアルバム
- 新人
を聴いた。
相変わらずな面も多いが、やはり10年はでかい。詩にも音にも大人の作ったものだという感じが出ている。
要は危なっかしさが無い。闇の部分が無い。聴き終わった後すっきりして何も残らない。人生とはなんぞやと歌い続けてきた筋少なのに・・・・・・答えが出てしまっているのだ。
去年の復活からこのアルバム発売に至る全ては、同窓会だ。バンドとファンの。そういう感じ。
でもまあそんなことはお互いわかっているし、それでいいのだろう。
お互い昔には戻れない。
鬱々な歌を聴く、悶々とした「あの頃」の自分が懐かしい。あんなに苦しかったのに、あの悶々が懐かしい。
あの悶々があったからこそ、筋少に惹かれた。・・・それがお互い変わってしまったのだ。
変わって悪いことは無い。大人には大人の面白さがある。
でも、ちょっとさみしい。
確かにあれ難しいよねー
『エアーマンが倒せない』大人気ですねえ。
こういうのはやったもん勝ちですねえ。
・・・何か似たようなものが続々出てくる予感がする。
知らない人は自分でYOUTUBEで検索してね。
孫殺し―イメージとしての障害―
おばあちゃんが生後三ヶ月の孫を絞め殺したらしい。
どうやら孫は知的障害を持っていて、おばあちゃんはその将来を悲観して殺したらしい。
三ヶ月ですでに障害持ちとわかっているところから、おそらくダウン症かそれに似た染色体異常系の障害であろう。
ダウン症児と直接触れ合ったことがある人はわかると思うが、彼らの多くはとてもカワイイ。ちっちゃくて、ぽっちゃりしていて、人懐っこい。もちろん例外もいるけど・・・。それに結構産まれてくる比率も多く、世間的にも他の障害に比べて偏見は少ないと思う。
将来を悲観して殺す。
ありえない。
と思う。
がしかし、これが世間なのだ。とも思う。
障害の中ではメジャーな方だと言っても、まだまだ「障害」というものそのもののイメージが、世間ではあまりにも悪すぎる。
あまりにも無知な人が多すぎるのだ。
世の中はそんなに嫌な人ばかりではないと思う。ただ知識が無いのだ。どう関わったらいいか、みんなわからないのだ。
人間は「わからないもの」を怖れる。怖いものは当然、避ける。無視する。排除する。
・・・おばあちゃんの中の「障害」も、きっとそういうイメージだったのだと思う。
知的障害? わからない。どう接すればいいの? どう育てたらいいの?・・・その不安が「世間様」に投影され、絶望に変わる。自分の中の恐怖が、世間の恐怖と映り、恐怖した世間の拒絶が、自らの拒絶となって跳ね返ってくる。・・・この子は誰にも受け入れられない! この子は不幸だ!
だから、この子のためにこの子を今、殺さなくてはならない。
大げさな話ではない。まったく大げさな話ではない。少なくとも、障害児を抱えた親の中に、世間を信用している人はほぼ皆無である。皆一様にこう言う。
「自分が死んだ時、面倒を見れなくなった時、その時のことを考えるととても不安だ」
当然の不安だろう。どう考えても当然の不安だろう。
しかし、この「当然」がある限り、産まれてきた障害児を殺そうと考える、そういう一見大げさな考え方をする親もまた、無くならないのだ。「障害=不幸」というイメージはなくならないのだ。
世間という最も大きなものが、味方ではない。これ以上怖ろしい事は無い。現実には法律によって人権が守られていて、我々施設で働くいわゆる現場の人間も頑張ってはいるが、だが、そういう問題ではないのだ。
世間のみーんなが、当の障害児を抱えた親も含めたみーんなが、悪いイメージを共有してしまっている。障害者は拒絶されるというイメージを共有してしまっている。それは一概に事実とは言えないはずだが、しかし、共有されたイメージは即ちその社会の中においては真実であるのだ。障害は不幸だ! かわいそうだ!・・・それが世間では真実なのだ。
施設で働いていて、たびたび空しさを感じる。
どんなにどんなに一生懸命支援しても、真摯に接しても、保護者の不安は消えないのだ。朝から晩まで、生活の全てをこちらで援助していても、保護者の肩の荷は軽くならないのだ。むしろ「ちゃんとご飯食べさせてもらっているか」「ちゃんと部屋をキレイにしてもらっているか」「ちゃんとお風呂入れてもらっているか」などなど、不安は増える一方なのだ。世間は信用できないというその世間は我々でもあるのだ。物理的に余裕があれば、自分で面倒見たほうがずーっと楽だ、と思っている親がおそらく殆どなのだ。それでいいのか?・・・別にそれじゃよくないということは無いのだが・・・しかし、それでいいのか? それだけでいいのか? ご飯を食べさせてあげて、お風呂に入れてあげて、作業を手伝ってあげて、散歩に連れていってあげて、たまに遠出して美味しい物をたべさせてあげて、運動会や音楽会を企画してあげて・・・それでいいのか? それが福祉なのか? それで彼らは、彼らの保護者は幸せなのか? 我々のやり方は正しいのか? 施設のすぐ隣近所にさえほとんど理解を得られていないのに?
三ヶ月の赤ちゃんを殺したのは世間だ。世間とは誰か。自分だ。自分が殺人を幇助したのだ。
・・・・・・重いか? 深く考えすぎか? しかし障害児の親は毎日がもっと重いのだ。それが今のこの社会の真実なのだ。
自分には何ができるだろうか? 正直言ってさっぱりわからない。・・・ただ、ちょっと重過ぎるくらい真面目なこの記事をもって、亡くなった赤ちゃんへの謝意としたい。
押井守新作
来年公開予定の「スカイ・クロラ」 。
今回のは今までとだいぶ違う作品になりそう。監督のメッセージを読んでそう思った。
同時に、この人のものの考え方が、今の私の思想の形成に少なからず影響を及ぼしているということを、再認識した。
再認識させてくれるメッセージ(及び記者会見)だった。
何者かになりたい。
でも、なって何をするかは考えていない。
・・・本当にそういう若者が増えていると思う。自分もそうだったし・・・いや、まだそうかもしれない。
「スカイ・クロラ」・・・どれだけ私の頭を揺さぶってくれるか、今から非常に楽しみである。
越谷阿波踊り
昨日は夜勤明けでしたが、帰宅後すぐにお出かけ。
奥さんの実家の越谷へ。
越谷は昨日一昨日とお祭でした。
阿波踊り祭りです。
阿波でもないのに阿波踊りです。
と、しかしこれが馬鹿にできない。すごい人・人・人。
踊りの「連」もたくさんあって、なかなかレベルも高い。
うちの奥さんちも家族みんな経験者。このお祭は楽しみにしているようで、普段なかなか会えないお義姉さんや一度も会ったことのない義弟まで集まりました。
実際衣装着て踊りに参加したのはお義父さんだけでしたが、見ているだけでも楽しかったです。眠かったけど。
初対面の義弟夫婦とその息子・・・つまり私の甥っ子は日が暮れかけてから合流。
義弟夫婦とはぎこちなかったけど、甥っ子はいきなりダッコをせがんでくるなどしてクソかわいい。
甥っ子はまだ1才。来月妹も産まれるようで・・・年子は大変だぞー。
ダッコしたりなんだりと相手しているうちに、「ああ、俺も『おじさん』なんだあ」と、ちょっと感動してもうた。
感動している横で奥さんは「ねえねだよー」と教え込んでいる。あんたは「おばさん」です。
しかし、甥っ子で感動してるんじゃ、自分の子どもが産まれた時はどうなることやら。
24時間テレビ批判について
いろんなところで番組批判されていたり、欽ちゃん個人が批判されていたりする。
確かにあの番組は安っぽい。しかし多くの人の批判の仕方もどうかと思う。
年寄りや障害者にチャレンジをさせて、感動を誘うというやり方、まずこれが偽善的であると言われる。
確かにそうだと思う。あの番組に出てくる人達は皆、かなり恵まれた環境にいる人達であって、要は「チャレンジができる」「がんばれる」人達である。本当に大変な人は、当然出てこない。生番組ということもあるし、番組の明るい雰囲気に相応しくないし。具体的に言えば、うちの施設の人達みたいな、重度の知的障害者や、精神障害者はでてこない。「がんばればできる」人でなくてはだめなのだ。
世の中にはがんばってもどうしようも無い問題がたくさんあって、それ以前に、がんばれない人達もたくさんいる。おそらくあの番組で「感動」できる人は、『クローズアップ現代』とかは見たことないんだろうな。
・・・でもね、それをいっちゃあ何も企画できないでしょ。視聴者が求めているのは、社会の現実を知るってことでも、障害者の実態を知るってことでもなく、「感動」なわけです。「感動」があれば、現実はどうでもいいのです。だから、ウソでも偽善でもいいから、「感動」を見せることがテレビ番組を作る人間の仕事であり、そこに文句を言うのは、おかど違いってやつなんです。テレビとはそういうものなんです。
それからマラソン。
無理してるとか、チャリティーの意味がわからないとか、「ワープ」してるとか、色々言われていて、実際それは最もなんだけど、それで欽ちゃんを批判するのは、これもまたおかど違いでしょう。
タレントの仕事は番組を面白くすることであって、走ることではない。
番組を盛り上げることができていれば、本当に走ったかどうかなんて、どうでもいいのだ。タレントはタレント。本当に「偉い人」になる必要は無い。
それに無理するなってのもおかしい。そもそも体張るのがタレントだし。芸の無い欽ちゃんにはそれしか無いでしょ。無理するなと言ったら、仕事なくなっちゃう。ヘビースモーカーの60代?・・・何言ってんの、健康な若者が走ったって、走れて当然なんだから誰も感動しないでしょーが。
別に番組をかばっているわけではない。欽ちゃんをかばっているわけではない。個人的に言えば、あの番組は大嫌いだし、欽ちゃんも大嫌いだ。それ以前にテレビが嫌いだし、芸の無いタレントが嫌いだ。しかし批判すべきところはそこには無い。いつも言っているようにテレビの問題は、視聴者の問題だ。みんながこういう番組を、「気軽な感動」を欲しているから、それに合わせてやっているだけなのだ。「嫌なら見るな」とよく言うが、まったくその通りだ。
「嫌なら見るな」・・・大きな話題になるのも、結局はみんなが見ている証拠。・・・・・・まあそれを言ったら自分も「釣られた」大勢の一人になるのかも知れないけれど。
観覧席
昨日の東京ドームの話。
平日ということで仕事が終わってから来る人が多かったのでしょう。開始時は前2・3列空いていて快適に観戦していたのが、9時近くになって席が埋まってきて、次第に見づらい状態に。
というか奥さんの席からはほとんど見えない状態に。前に少々大きめのお父さんが座っちゃったんですな。
これ、ちょっとほんとに考えてほしい。
大人でさえ前の人が自分より大きいと見えなくなる状態。子どもの場合は?・・・当然まったく見えません。
野球観戦と言えば、子どもに見せたくてやってくる家族が、大半とまではいかないまでも、かなり多いはず。それなのに、座席になんの工夫もされていない。
中には、後ろに小さい子がいるのに気付いて、移動しているおじさんとかもいたけど、これも比較的空いている平日だからできること。
せめて席をジグザグに配置するとかしてほしい。できれば一段ずつの高さを変えてほしい。だいたいぎゅうぎゅうにしすぎ。足元も狭い狭い。飲み物買いに行くのも一苦労。
日本の野球がメジャーに比べて地味なイメージがあるのは、選手のパワーとか、プレイスタイルの問題だけではない。球場や球団の、ファンに対するサービスの質が、まだまだぜんぜん、追いついていないんだな。その辺を、ちゃんと考えてほしいんだな。
と、そう思った。だってゲームそのものは面白かったよ?



