他愛も無い事だけど 久しぶりに ぼーっと 2時間サスペンスを見ていて その中の 「二度と貧乏で貧しい暮らしはごめんだ。」って言葉が 頭に残ってしまった。

私は 父親が養子で母親の実家は 代々の魚屋で まぁ、土地とか財産とか結構あったから  小学校5年生までは 裕福な暮らしをしてました。

財産を継いだから 父親は 母親に内緒で 女遊びや着道楽・車などで 気前良く散財したみたい。

長崎の田舎者の母親は 千葉からやって来た 背も高い男前の都会の人、つまり父親に一目惚れをしてしまい 当時いた役所勤めの許婚を断って 周囲の大反対を押し切って 父親と結婚、19才だったみたいです。

若いし世間知らずの母親は 借金まみれになっている我が家の事情を 魚市場で 『出入り禁止』を言われるまで 全く気付くことなく ただただビックリだったみたい。

で、気付いた時には 父親は 借金と私たち子供3人を残し 母親の友達と逃げました。

この借金、払うなり 誰かに そして 何処かに 相談するなり 年相応の対応すれば良かったけど、周囲の借金軍団と 来日も来る日も酒を飲みながら 『どうしたら 何処かで借金できるのか』を相談してたらしいです。

もちろん 新築の家もお金も車も無くなり 住む所も一時は無くなり 特に私たち兄弟は ただただ どうしていいかわかりませんでした。

安アパートを 母親がどんなにしてかは分からないけど借り 本当に或る日突然の貧乏になりましたねぇ。

兄は 勉強命で中学の時は学校推薦で ラサール高と修道高を受験したほど頭良かったなぁ。
でも、家庭の事情にて 断念、福岡県の屈指の公立の受験高に進み 防衛大目指して頑張ってましたね。

私は 突然の状況の変化が 子供心に受け入れられず 思いっきりグレました、悪い事何でもしたかも…

ただ、弟がいたし、とっても可愛がっていたから 『この子だけは私が守る!』って思ってた。

兄は 防衛大は視力制限があるらしく それならと地元の九大と京都大を受験して、受かったけど やはり事情で大学進学を断念、知り合いの魚屋に勤めに行ったけど まぁ、ショックだったみたいで、家も出て 借金を大分背負って 卑屈になって そのうち音信不通に。

と言うのが…気が付けが 私の高校の授業料も役所から援助してもらってたみたいだけど全部 雪ダルマ借金に使い 挙句 苗字を変えたらまた借金できた時代みたいで あちこちで入籍しては別れるを繰り返し 母親も消えたんですよね。

弟と2人ぼっちで そのうち テレビや映画で見るように 夜中に玄関をバンバン叩いて「〇〇さーん、居るのわかっとるよ 金もらいに来たよ~~出てこんなら入るよ~~」って男の人が毎晩来るし怖いし そのうち電気・ガス・水道も止まってしまったの。

私、よく分からんまま、「お金ないから、弟おるし 学校辞めて働くわ、だって家も借りんといけんし。」ってことで 当時は年齢誤魔化して 冷凍食品の会社に片道1.5時間歩いて行きましたね。

初給料まで私と弟は別々に友達の家とか ひどい時は とあるマンションの一階の下で一夜を過ごしたり お腹空いて 他人のみかん山でみかんをこっそり食べたりもしましたねぇ。

で、やっと自力で借りたアパートは昔のフォークソングの歌詞みたいに JRの真裏で風呂無し・トイレと洗濯場は共同で扉・窓は木枠。流しは石で出来た物、お金無いからガス台なし、6畳のポンコツアパートでしたが それでも大満足でした、だって怖い思い・暑い・寒いなどから解放されたから。

弟を高校出すまでって働きましたね、いろいろと。

無事に卒業したと思ったら 「姉ちゃん、結婚してパチンコ屋の寮に行くわ」って独立し、私は兄と分けた親から唯一貰った借金の為に とても働きましたね。

弟ともだんだん連絡取らないようになり、って 借金が弟に行かないように離れましたね。

こんな事情で私たち家族はバラバラ分解しました。


あれから25年かぁ…早いのか遅いのか…


ドラマの一言のセリフで今日はその頃が走馬灯のように甦りました。

だけど…私は お金が無いとか貧乏よりは 『二度と一人ぼっちはまっぴら!!!』と思います。

いろんな思いして一生懸命 生きてきたけど、この言葉に行き着きました。