こんにちは。 ノートル パリです。 ご訪問頂きありがとうございます。

 

パリ国立オペラ座 オペラガルニエには、何度かお客様を見学用にご案内しています。

朝10時から見学が出来ますので、午前中が理想的です。

 

下記のような素晴らしい回廊があります。

私の大好きな場所の中の1つです。 ( ´艸`)

 

2023年12月21日から2024年4月5日まで、プランシパル ダンサーだった『ルドルフ・ヌレエフ』展をやっていますので、オペラガルニエ内装見学の際には、ご覧頂けます。

 

1938年生まれのヌレエフは、当時のソ連生まれで、1993年に、パリにて他界されています。

ルドルフ・ヌレエフは、最も偉大なクラシックダンサーの1人です。

ロシアと言えば、20世紀始めには、バレエ リュスとしてパリでも公演し、ニジンスキーの『牧神の午後』と『春の祭典』の振付でセンセーションを呼びました。

ルドルフ・ヌレエフが生まれる前のお話ですが、のちに、ヌレエフがニジンスキーの『牧神の午後』を踊ります。

 

ルドルフ・ヌレエフは、1983 年から 1989 年までパリ・オペラ座バレエ団の監督を務め、1992 年までバレエマスター兼主任振付師も務めました。

1961年に、パリに来た際に、当時の厳しいソ連からフランスに政治亡命しました。

KGBに付きまとわれ、ソ連に戻れば刑務所行きになるのを覚悟で、亡命したのです。

非常に勇気のある行動です。

亡命後には、1962年に、アメリカにて、デビューし、ロンドンのロイヤル バレエ団で踊り、ウイーンの国立オペラ座にてバレエの振り付けをし、国際的な活動をし、バレエのスーパースターになっていきます。

1980年代、ルドルフ ヌレエフはパリの国立オペラ座にて、定期的に踊るようになったのです。

私が初めて、オペラ座に行ったのが、1984年位でした。 当時のスターダンサー ヌレエフが、舞台で踊っていたのも見た事がありましたが・・・、その1984年にエイズになりました。。。

 

その時代は、エイズが話題となっていた時代でした。 当時、サンジェルマン デ プレにショップのあった、日本人のシューズデザイナー 熊谷ときお氏= ブランド名TOKIOもエイズで他界され、私の知人もエイズで他界されたので、お葬式に行きました。

 

ルドルフ・ヌレエフは1989年まで監督の職を務めたのですが、1993年に54歳でエイズで他界されました。

 

この展覧会は、ヌレエフがレニングラードのキーロフバレエ団のヨーロッパツアーのパリ公演の後に、西側へ行くこと(=亡命)を決意した時から始まる彼のバレエの世界です。

 

ダンサー、振付家、ダンス監督のヌレエフの死から30年を機に、パリ国立オペラ座とフランス国立図書館が協力してヌレエフに追悼の意を表し、ガルニエ宮との関係のさまざまな側面を今回展示しているようです。

 

 

 

下記は、クリスチャン ラクロワがオペラ座の衣装責任者をやっていた時1987年のデザイン画

 

クリスチャン ラクロワになる前のデザイン画

 

 

衣装責任者も時代によって、変わっていきます。

 

 

 

舞台の上でのヌレエフ

 

 

 

 

衣装

 

 

 

 

 

 

 

 

ヴィデオもありましたので、一部、写真を撮りました。

 

楽屋裏でのヌレエフ

 

1993年に、TVで放送された時のヌレエフのお葬式。 パリ国立オペラ座にて行われました。

大勢の関係者の人達が駆けつけてきています。 オペラ座は、満員状態・・・

 

 

オーストラリアの音楽に合わせて・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

パリの彼のアパルトマンは・・・

セーヌ川沿いでルーブル美術館が見える23 Quai Voltaireです。

 

アパルトマンには、ここにヌレエフが住んでいた証の石の看板が取り付けられています。

 

 

彼のアパルトマンは、18世紀の建物内にあり、ロシア、フランス、イタリアの家具、コルドバの革で覆われた壁、貴重な木材や布地、豊富な新古典絵画など、贅沢なロシア風の豪華な新古典主義とロマンチックな装飾が施されているそうです。 素晴らしい内装。

下記の建築雑誌 ADの表紙にもなっています。

 

しかし・・・

すべての芸術作品は 1995 年にロンドンのオークションで販売されたそうです。

 

オルリー空港を越えた所にあるロシア人墓地のサント・ジュヌヴィエーヴ・デ・ボワにルドルフ ヌレエフが永眠しています。

非常に独創的でモザイクで覆われた墓はヌレエフが愛したキリム絨毯を模倣しているそうです。 

 

合掌

 

 

 

 

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