こんにちは。 ノートル パリです。 ご訪問頂きありがとうございます。

 

バスチーユのメトロのホームでフランス革命時代の遺跡をご覧頂けます。

 

下記の写真は、先週ですので、最高気温25度位で皆長袖を着ています。

が、今週は、急に夏日となり、今日は最高気温が30度! ( ´艸`)

 

バスチーユには、14世紀にシャルル5世によって作られたバスチーユ宮殿がありました。

当時は、攻撃から守る為の軍事技術として作られた要塞だったわけです。ちなみに、ルーブル美術館も最初は、要塞から始まっています。

 

このバスチーユ宮殿には、武器倉庫もあり、後のバスチーユ牢獄になっても武器倉庫はそのままっだので、1789年7月14日に、市民達は、『バスチーユに行け!バスチーユに行け!』と、武器倉庫を目指し、フランス革命に火がついたのでした。

1790年に、1周年を祝い、この7月14日が、現在のパリ祭の日=建国記念日と国家形態である連邦記念日を祝う祭日となったのです。

 

 

下記は、1789年7月14日バスチーユ襲撃時の様子を描いたジャン・ピエール・ウエル作の絵画。

フランス国立図書館より。

 

武器や大砲を探すためにアンヴァリッドを占領した直後に、火薬や弾丸を求めてバスティーユが襲撃されたそうです。

 

下記は、美術館で随分と前に撮ったバスチーユ牢獄の模型の写真。

当時は、4つの塔から始まり、その後、塔の数を増やしていったそうです。

 

セーヌ川からお堀に水が入るようにしていたので、日本のお城のお堀と同じような構造ですね。

 

このバスチーユは、15世紀のルイ11世の時代には時々刑務所として使われ、その後の16世記フランソワ1世の時代には武器倉庫として使用され、アンリ 4 世の時代には王家の富の金庫として使われたそうです。

 

 

ちなみに、17世紀後半には、有名な囚人『鉄仮面』が刑務所に入っていたとか・・・

鉄仮面は、太陽王14世の私生児と言われています。

そして、日本の刑務所とは大きく異なり、病気に対処してくれる医者もいて、高級な食事、メイド等の使用人もいて、テーブルや家具や暖炉もあり、貴族やブルジョワの政治犯達は、快適な刑務所暮らしが出来たとか・・・

しかし、1789年フランス革命時には、囚人は、たったの7人しかいなかったそうです!

 

最終的に、1789年7月14日と1791年5月21日に、バスチーユ牢獄は、解体されました。

 

長くなりましたが・・・

下記の★印の部分が、バスチーユのメトロのホームにあります。 ( ´艸`)

アップで・・・

1899年にメトロ1号線が作られた時に、要塞の遺跡が再発見されたそうです。

メトロ5号線にも要塞の遺跡が見られます。 ここで記載しているのは、バスチーユ駅の5号線ホームです。

 

下記です。バスチーユの遺跡ですね。

 

下記を見ると、もっと分かりやすいでしょうか?

広場の中央にある2本のグレーゾーンが遺跡の場所で、◎印が、上記の遺跡場所です。

メトロがそこに左右から走っています。

そのグレーゾーンの上に、現在では、7月の塔の記念碑が建てられています。

そして、バスチーユ牢獄は、8個の塔の跡も記載されているグレーゾーンの下部です。

 

現在では、バスチーユ広場の石畳 下記の部分が当時のバスチーユ牢獄の跡地だとか・・・

 

下記のようなバスチーユ牢獄の地図の看板もバスチーユ広場に残っています。

『1370年に始まって、1789年7月14日に市民によって襲撃され、同年に取り壊された』

と記載されています。

 

バスチーユ広場から近いアンリ・ガリ広場には、バスチーユ牢獄の残骸が今も残っているんですね。

 

パリの町は、こんな歴史を考えさせてくれる町でもありますよ。 ( ´艸`)

 

 

 

 

 

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