皆さん こんにちは~! パリ個人旅行案内のNOTRE PARISノートル パリです。
お元気でしょうか?
現在のパリの美しい街並みは、パリ改造がベースとなり、そのお陰でなんですね。
パリの町を歩きながら、過去への旅が出来ますよ。
パリ改造の成功例の1つは、13回目に引っ越した現在のオペラガルニエとオペラ大通り。
凱旋門の周りの放射線状の12本の大通り
コンコルド広場とバスチーユ広場をセーヌ川に沿って広い道でつなぐ、リヴォリー通り
オスマニアンと呼ばれる建物
などなど、、、に見られます。
このパリ改造は、ナポレオンの甥っ子 ナポレオン3世=シャルル ルイ ナポレオン ボナパルトとオスマンセーヌ県知事=ジョルジュ オスマン男爵によって、1853年~1870年に行われ、その後、第二次世界大戦後にもポスト オスマニアンとして引き継がれていきます。
下記は、ナポレオン3世からオスマン知事にパリ改造途中の1860年に出された政令を手渡す所
このパリ改造が行われた理由は、当時のパリはごちゃごちゃしていて道が狭く入り組んでいて暗く犯罪も多く、不清潔でコレラが大発生したという事もありますが、フランス経済革命が1840年頃ブームとなり、テイエールの城壁がある町の中は発展が取り残される危惧があったわけです。
点では無く、パリ全体の総事業で、統一性のある美しい街並み、下水道工事、道路網の整備事業、公園、鉄道整備や駅などのモダン化によって、経済活性化と環境改善を行ったのです。そのパリ改造のお陰で、パリ人口は、どんどん増えていきます。
東京など他の町でもこのパリ改造をお手本にしている部分があるようです。
//パリ改造の最初に手掛けたのがシテ島//
パリは、大昔に、このセーヌ川に浮かぶ小さな島にパリジーという原住民がいて、ここからパリという町が出来ていくのです。
中世のごちゃごちゃした通りしかなかったここに、シンプルな通りを3つ作り、町に風通しを良くしたのです。
下記シテ島の地図のように、赤い部分に道と橋を作り、黄緑の場所が警視庁、ノートルダム寺院はその正面に+で示されています。大きな青の正方形の部分が、HOTEL DIEU=市民病院でその下が、ノートルダム寺院の正面広場。小さな青の四角の部分が商工会議所。
現在もシテ島にこれらがあります。
下記が商工会議所のあった場所で、建物も崩れかけていた。
1860年に、下記の商工会議所が作られた。
//コンコルド広場とバスチーユ広場をセーヌ川に沿って広い道でつなぐリヴォリー通り//
下記のようなごちゃごちゃした道を崩し、広いリヴォリー通りを作ったのです。
が、現在でも裏道に入れば、似たような通りも存在しています。
1850年当時は、未だ電気がなく、ガス燈で、真夜中も工事していたそうですよ!
リヴォリー通りが出来、1850年に下記のBHVデパートも出来ました。
ナポレオン3世は、このデパートの前を馬車で走っていて、このデパートにも妻の靴ひもを買いに立ち寄ったとか。
ちなみに、世界初のデパートは、1838年にオープンした『ボン マルシェ』(現在はルイヴィトン傘下)です。
下記は1900年のBHVデパートの絵ハガキ。現在と同じファッサードです。
マレ地区にある現在のBHVデパート
//サンジェルマン//
当時のサンジェルマン小道。大通りを作る為に壊したとか。
大通りが作られていきます。
1877年の写真。道路が広くなり、オスマニアンの建物が出来ました。
1900年の写真。木が植えられ路面電車らしき物も走っています。
現在。お洒落なサンジェルマン地区。
// オペラ座 //
当時、建物を崩した所
1861年、オペラ座の基礎工事。
1862年。周りには、かなりオスマニアンの建物が建っているのが分かります。
工事途中1870年には普仏戦争があり、ナポレオン3世も廃位となり、1873年には、ナポレオン3世は、病死します。
が、ナポレオン3世スタイル=ネオ バロック様式のオペラ座は、1875年にオープニングにこぎつけます。
中のネオ バロック様式は、目を見張るほどのまばゆさ。
現在も同じように素晴らしいです。筆者の一番のお気に入りの場所♡
ご見学も可能ですよ。
// オペラ大通り //
工事中
オスマニアンの建物も正面のオペラ座も出来上がったオペラ大通り
現在も大して変わりません。
このパリ改造が、現在のパリの町を作ったのです。
未来のパリは、、、?
こんなイメージ案件『スマート シテイ―』のようになるのでしょうか?
未来都市になるのは、何十年も先でしょうね。 ( ´艸`)
NOTRE PARISノートル パリ