2024年3月3日14:20 中学3年生の最終授業より

 

もう、いいでしょう。よくやった、充分がんばった。

もう勉強しなくていい。あとは体調を整えることに専念してよいと思います。

 

最後に余計な話でもしましょう。勉強とは関係ないんで、聞いていても、聞いてるふりだけでもOKです。

 

皆さん、突然ですが「幸せ」ってなんだと思いますか?考えてみたことってありますか。

 

私は、あくまで私個人の考えなんですけど。

「幸せ」って、どこからかやってきたり、どこかに逃げていったりするものではないような気がするんですよ。

 

私は若かりしときは「明日に不安がない生活」こそが幸せだと考えていました。そう思っていました。

 

でも、ある時から、十数年ぐらい前かな。東日本大震災の少しあとぐらいかな。

「ちょっと違うんじゃないかな」って思うようになって。

明日に不安があっても「幸せ」を感じる瞬間はあるし、何より、明日への不安が全くない日なんて自分の人生で、ほとんどないんですよね。何かしら悩みや不安、課題はある。

十数年ぐらい前の自分は特にそうでした。悩みや不安だらけでした。

 

意図的に明日のことを考えない、とか、明日のことは忘れて一時を楽しむ、ということはあっても、不安がない、ことはないんです。

必ず、あるんです。

 

皆さんの机の上に鉛筆がありますよね。

それをやじろべえ、シーソーの要領で、人差し指の上にのせて落ちないようにバランスをとってみてください。

 

どうですか?わりと簡単にバランスがとれたのではないでしょうか。

鉛筆のほぼ中央あたりを。人差し指の指先より、すこし下の指の腹のうえにのせて。

 

思うんですけど「幸せ」って、この「バランスがとれた状態」なんじゃないか、って思うんです。

今はまだ、皆さん15歳、バランスをとるための支点がどこにあるか、わりと目測で予想がつくんじゃないかと思います。

たとえるならば、皆さんの鉛筆はまだ15年分の長さなので。

 

でも、これから長い年月が経過し、皆さんそれぞれが様々な人生のイベントを重ねることで。

たとえば進学や就職、結婚。家族ができたり、逆に家族と死別したり。

 

そんな様々な人生のイベントを重ねることで、この鉛筆は長さや形、質量までもが変わっていく。

それゆえバランスをとることが非常に難しくなっていく。

 

でも、なんとか鉛筆が落ちてしまわないように。

失敗しながらも、試行錯誤して、やっと支点を見つけ出し、うまくバランスをとることができたとしましょう。

 

この「バランスがとれた状態」が「幸せ」なんじゃないかって思うんです。

 

そして、バランスをとるために一生懸命、試行錯誤することが

「生きる」

ってことなんじゃないかな、って。

私はそう思っています。

 

いよいよ明後日が入試本番ですね。入試・高校受験は皆さんの人生にとって大きなイベントの1つです。

間違いないです。

でも、これだけは覚えておいてください。

塾の先生がこんなこと言うのもなんですが、高校の合格・不合格や、どこの高校に入学した、できた、とかは人生の幸・不幸と全く関係はありません。全然関係ないです。

 

大事なのは、いつだって、与えられた環境でどのように頑張るか、です。

どこで頑張るか、もある程度大切かもしれませんが、それはあなたの気分を左右するぐらいの影響です。

望んでいた場所が思うような場所ではなかった、と感じることだってありえます。

はじめから、望むような場所が選べないことだって人生には多々あります。

 

たとえどこであっても、どのような環境であっても。どのようにあなたが頑張るか、で人生は変わっていきます。

間違いないです。

人生の幸・不幸もあなた次第、あなた自身の心の持ちようと頑張り次第で、いかようにも変わっていくはずです。

変えていけるはずです。

 

これで私の授業はすべて、終了です。明後日の健闘を祈ります。

合格発表は来週14日ですね。皆さんの報告を、待っています。

 

 

 

 

 

 

 

#いわき市

#塾

#学習塾

#Study Space

 

今年も3月11日が近づいてきます。

喉と胸の間や、お腹の奥に重いものが沈む感じは何年経過しても変わりありません。

NHK総合、3月9日(土)16:10から放送される番組に出演いたします。

再放送は12日(火)午前2:38~(11日深夜)です。

 

どのように映っているかわかりませんが、

 

命の儚さを通して、命の大切さを

自然災害の恐ろしさを通して、備える大切さを

一個人の無力さを通して、協働する重要性を

救えなかった命を通して、救える未来の命を

考えるきっかけとなることを願っています。

 

 

 

 

 

 

 

#いわき市

#Study Space

#学習塾

今年、2023年4月にアップしたブログ

「不登校・長期欠席が続いている方で、且つ高校受験を考えている方へ(いわき市を例に)①~③」

が、半年以上たった今でも毎月多くのアクセスがあり、驚きと同時に、思い悩んでいる方が多数いらっしゃることに改めて気づかされます。

https://ameblo.jp/notforpower/entry-12796631159.html

 

今回は高校受験に関してではなく、不登校・長期欠席の一因とおもわれる「学習性無力感」と

そこからの回復方法についてお話させていただきたいと思います。よろしくお願いします。

 

 学習性無力感とは

 

通常、人はストレスや不快感が与えられる状況に置かれると、

そこから回避しようと一定の努力をします。

 

しかし、努力しても回避できない、何をやっても変わらない、という状態が継続すると、

「何をしても無駄だ」

ということを学習してしまい、問題回避のために自発的に行動するのが難しくなっていきます。

 

このような、

「声を上げても意味がない」「行動してもどうせ変わらない」というストレス体験から、

やがては諦めの境地に達してしまうこと、

そこから感じる無力感は「学習性無力感」と呼ばれています。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%80%A7%E7%84%A1%E5%8A%9B%E6%84%9F (Wikipedia)

 

この状態に陥ると、場合によっては

「自分にはできない」

「自分にはその能力がない」

「自分は適応できない」

など、

今ある困難な状況の要因は「自分の能力不足」にあると思い込んでしまい、ますますネガティブな感情を持つようになってしまいます。

 

学校に行けない、学校に行きたくない、など、

不登校問題を抱えているお子さんの多くは、このような学習性無力感を感じてしまった結果によるものではないか、と私は考えています。

 

ではどうしたらよいのでしょうか。

 

 

私はまず、この「学習性無力感」という言葉と、その事象をお子さん自身に知っていただくことが第一歩ではないかと思います。

 

そしてもし、お子さんご本人から「たぶん、そうかもしれない」「僕(わたし)にあてはまる」ということでしたら、

その状態から回復していく方法は複数ある、

ということを知ってもらい、ご家族協力のもとで実践していただければと思います。

 

ただし、いかなる場合でも、最優先はご本人の心と体の健康ですので、あせらず、無理せずでお願いします。

今後のことを考えることがさらなるプレッシャーになることもあります。
大きな問題を抱えている最中で、心が打ちひしがれている状態であれば、何もしない休息が最優先です

 

今回は回復方法の主な例を3つをあげます。

 

キーワードは「からだ」「ことば」「あたま」です。

 

実践する順序もこの順番が最善、とご理解ください。

 

 

 からだ ことば あたま

 


 

①からだ

 

からだを整える習慣をつくりましょう。

 

心と体は繋がっています。健康な体は心にもよい影響を与える、ということをお子様ご本人に伝えてください。

十分な睡眠と適切な運動、健康的な食事が基本です。

その上で、開放的な空間で過ごす時間、好きなもの・興味のあるものに触れる時間、これらを大切にしましょう。

 

②ことば

心許せる、頼りにしている誰かと会話し、ことばを紡ぐ時間をつくりましょう。


「心許せる誰か」が家族であればよいですが、

家族以外であれば、一定距離がありながらも、気を使いすぎず話せる人がよいでしょう。


思い切って今ある悩みや不安を打ち明けてもよいですが、そこまででなくてもよいです。

 

何よりも「他愛のない話題や世間話で過ごすだけの時間」のほうが心地よいものです。

 

大切なのは話を聞いてくれる「だれか」と会話をすることで、自ら言葉を紡ぎ出す「ゆったりとした時間」をつくることです。

 

 

③あたま

あたまを働かせる時間をつくりましょう。

新しいことを学ぶ、頭を働かせて考える、知識を得て蓄える、得た知識をアウトプットする。

こういった一連の学習行動は、知性や理性、感性などさまざまな要素を育てることができます。

学ぶ内容は必ずしも学校で習うものでなくともよいです。料理などでもよいです。

努力次第で到達や成功につながる学習体験は、何となく過ごす日常では得られない貴重なものであり、自信を育てます。

一日の中の1時間でもよいのであたまを働かせる時間をつくりましょう。

 

 

からだは自分の意思で自由に動かすことができます。右手をあげる、左足から踏み出す、たやすい動作です。

しかし、心は思い通りに動かすことはできません。

 

こころは、多くの場合、外から刺激を受けることで反応します。何よりもまず「行動してみる、やってみる」ことが大切です。

「何もしなかった」というのは何も変化しない、ということではなく、「何もしなかった結果」が時間差で訪れるもの、と私は考えています。

 

「からだ」「ことば」「あたま」、実践できることから少しずつでもチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

※最優先はご本人の心と体の健康ですので、あせらず、無理せずでお願いします。 心に余裕が生まれ、今後のことを考え再び動きはじめたときの指針のひとつになれば、と思っております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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#学習塾

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#チャレンジホーム

中学生、定期テストにむけて自学自習中。

 

ホワイトボードに

 

 

    
「横着」

 

と書いて私は問いかけます。

 

「皆さん、この言葉を知っていますか?意味を知っていますか?」

 

生徒A「よ、よこつき・・?」

生徒B「よ、よこちゃく。。」

生徒C「ヨコ、、ギ?」

 

残念。おうちゃくと読みます。

横着は賢くなるためには敵です。勉強する中で、いかに横着を無くしていくか、これが成績を上げる鍵です。皆さんは横着していませんか?

 

いっぱい勉強してるのに成績があがらない、成果が出ない、なんて時は横着していないかセルフチェックすべきですよ。ちょっと説明しますね、いいですか?

 

まず怠惰横着の違いをしりましょう。

 

怠惰」とは、辞書で調べてみると、

 

しなければいけないことをなまけること。おこたること。気持ちがゆるんでだらけること。また、そのさま。

 

とあります。皆さんは少なくとも塾では「怠惰」ではありませんね。自宅ではわかりませんけれど、ほとんどの人は宿題、自学、試験勉強など、やるべきことはやっているので怠惰にはあてはまらないと思っています。

 

では「横着」の意味を辞書で調べてみますね。

横着とは

 

労力を使わずに得をしようとすること。できるだけ楽をしてすまそうとすること。また、そのさま。

とあります。

 

ここで大切なのは、横着は怠惰とちがって、「やって」はいるのです。

ただ、「労力を使わず、楽してすまそう」としているため、 手を抜いているんです

ちゃんとやるのは大変だから。労力を使うから。

 

横着の恐ろしい所は、それが癖、習慣になってくると、周囲、家族の人は勿論、自分自身でさえも横着に気づかなくなっていくのです。

手を抜いて済ますことが当たり前になってしまうのです。一生懸命やっていると錯覚さえします。

怠惰は何もせずなまけているので、周囲の人も、自分自身も気づきますが。

 

横着は簡単に言い換えると「まぁ、いいか。。」の心です。

 

日頃の勉強で思い当たる節はありませんか?

 

解決すべきところを解決せずに終わらせていませんか?

時間やページを埋めることが目的になっていませんか?

提出すれば評価されると、中身が伴っていないものを提出していませんか?

 

人間なので、弱い心はあります。

でも勉強で横着していたら、成績はあがりませんよ。

労力を使わずに得した気分になっているかもしれませんが、

私にはそれが無駄な時間の使い方に見えます。もったいないです。

 

横着、まぁ、いいかの心が、頭に、胸に、お腹の奥の上あたりに出てきたときは

ぐっとこらえて、

「ダメだ、ちゃんとやらなきゃ!」と自分を奮い立たせてください。

これができる人とできない人では、とても大きな差が生まれますよ。

わかりましたか?

 

じゃあ、試験勉強再開!

分からないところは横着せず、どんどん質問してね







#いわき市 #学習塾 #塾

#勉強 #不登校

#Study Space

GWのさなかの5月3日の水曜日、いつもの散歩コースの海岸にそれは打ち上げられた。

ふだんは地元の人間とサーファー、釣り人、漁業関係者がわずかに使う、

県道から築港への抜け道。そこの防波堤の向こう側、砂浜海岸にそれは打ちあげられた。

 

話を聞くと、早朝にサーファーさん達が見つけたときにはもう弱ってはいたものの、

まだわずかに動いていた、生きていたという。

 

彼ら数人で海へ押し戻そうとしたけど、少しも動かすことはできなかった、とのこと。

 

その後、連絡を受けた水族館の方などが来て、それは、息絶えたことが確認された、と聞いた。

 

 

 

 

砂浜に下りて近づくのは躊躇われたので、少しはなれた防潮堤から砂浜を覗き込むと、

距離があってもその形からマッコウのそれであるとわかる。

それが、波打ち際に横たわっている。


半分は水につかり、波は引いては押し、の一定のリズムで繰り返し弱くぶつかっていた。

10メートル近くはあるだろうか。離れていても、質量は感じる。

ものの、確かに命は感じない。

 

いっしょにいた次男は初めて見た大型海洋生物に思わず声を上げたが、

 

「はしゃぐな。死んじゃってるんだ。かわいそうに、だ。」と小さく制止した。

 

数メートル近くまで近づいている家族が見えた。

こどもはそれに向かって、石か貝殻を投げていた。

 

 

「生きていたらな、よかったんだけれどな。もう帰るか。」

なんだか居たたまれなくなって、その場から離れることにした。

 

それはその日のうちにヤフーニュースになり、

夕方のテレビでは県内ニュースにもなった。

「いわき市でクジラが打ち上げられました」

翌日にはそれは新聞の記事になった。

 

いくつかのニュースでは「病気などで亡くなった可能性があるため、触れたりしないように」と注意喚起がされていた。

 

ほどなくそれは、近くの砂浜を掘って埋められることが決まった。

 

一般的には、海か土に還すことが多いという。

 

学術利用や標本保存などにするのは、多くの手間と費用がかかることもわかった。

時間がたてば経つほど、処分は難しくなるものらしい。

 

大きさが大きさ、場所が場所だけに移動させるのは難しいことを考えると、

今回のように、研究機関用に検体サンプルを採取後、できるだけ早く、近くに埋葬するのがのがベターだと理解した。

 

そこから4日ほど、ふだんはひとけのない抜け道には、

家族連れ、カップル、スーツ姿の記者か会社員か学者風、テレビ局のクルーなどなど、

たくさんの人が入れ替わり立ち替わり訪れた。

 

10年以上、ほぼ毎日この道を通っているが、この場所にクジラが打ちあがるのも、

ちょっとしたお祭りのような騒ぎになるのも、はじめての経験だった。

 

防潮堤の階段を登り、砂浜のほうを見下ろす人たち。

どういう気持ちで見に来て、どういう気持ちになって帰っていったのか、

少しだけ気になったが、勿論知るすべはなかったし、まあ、どうでも良かった。

 

埋葬のための重機が砂浜に入るころには、路上駐車で車が列をなしていたそこも、

いつもの、もとの静かな抜け道に戻っていた。

 

唯一いつもと違ったのは、防潮堤下の風景ぐらいだった。人が集まるとこうなる、仕方がない。

 

 

東日本大震災、その後の数年を思い出した。

一連の流れが、少し似ていたからなのかもしれない。

でもだいぶ違うかもしれない、と思った。

 

昨日テレビでは車で移動するゼレンスキー大統領の映像が流れていた。

 

沿道に並ぶほとんどの人たちは

スマホを頭より高く掲げてシャッターを切っているように見えた。

テレビのインタビューを受けた在日ウクライナ人の方たちは、それぞれウクライナ国旗を掲げていた。

 

その映像で数週間前のクジラを思い出して、今ブログを書いている。

少し似ていたからなのかもしれない。でもだいぶ違うかもしれないとも思った。

 

クジラ、生きていたら、よかったんだけれどな。