その宗教が集団自殺や大量破壊を企てる。信者には医師や技術者、研究者など優秀な人材も入ってしまう。なぜ簡単に世間は怪しげな宗教を認めてしまうのだろうか。結論から言えば、「宗教に無知」だからである。宗教は個人の幸福と世界の平和を目的としなければならない。この視点さえ身に着けていれば、金儲けや宗祖の個人的欲望の手段に使われることはない。
残念ながら、義務教育では信教の自由、思想の自由の原則に支配され、基礎的な判断基準さえ教えない。それは致し方ないにしても、ある程度の年齢に達したら、これはちょっとおかしいな、と一回立ち止まらなければ、悪徳宗教に利用されるだけだ。
田上太秀(2000)は『人間ブッダ』(第三文明社、レグルス文庫)によると、「ブッダになった後、釈尊は身心の悩みも悪魔の誘惑もまったくなかったのでしょうか。じつはブッダになった後も悪魔の誘惑があったとお経には書かれています。また、真理を悟ったとはいえ、最初はその内容をまとめて人々に理解させるだけの余裕をなく、どのように伝えるかという方法が見つからず、悩んでいたともいわれます。ブッダになったとは世間の道理をよく理解できた人になったということです。したがってブッダとは神秘的な、超人的な、呪術的な力を取得した人ではありません。ブッダになっても悪魔の誘惑があり、種々の悩みがありました。だからブッダになっても誘惑を退ける努力、煩悩が起きないようにたゆまない精進が求められます。ブッダになっても修行は続けなければなりません」(p38)。
「人は修行するまえから悟っているわけではありません。修行によって悟りを得るのです。だから修行をしなかったら悟りはありません。ブッダになるためには修行が必要です。では、ブッダになることは修行が成就することですから、そのあと修行しなくていいのでしょうか。そうではありません。悟ってからも修行を続けなければ、生身があるかぎり、煩悩が起こります。だから釈尊はブッダになってからも修行に励みました。ブッダは絶え間なく修行を継続する人です。ブッダは終わりのない修行を絶えず遂行し、つねに完成された人格を維持している人と考えなければなりません」(p38)。
「釈尊は菩提樹の下で明けの明星を見て、これが真理であるという確信を得て心の曇りが晴れたといわれます。だからブッダと呼ばれました」(p40)。
「それまでの、神によって、あるいは創造主である絶対者によって世間は作られ、それらに支配されてものは生まれ、活動し、そして死んでゆくという考え方に対して、釈尊はいろいろの要素が寄り集まってすべてのものはあるという道理に気づいたのです。これはそれまでの宗教や哲学では全く考えられない新しい発見でした。これが最初の悟りです」(p40)。