バランスのとれた生き方 | ノートさんのブログ

ノートさんのブログ

ブログの説明を入力します。

 釈尊が目指したのは特別な人間ではなく、皆をほっとさせる人間になることでした。真理を悟った人間は、人間としてどう振る舞えばよいかわかってくる。その平凡な生き方をするためには厳しい修行が必要だ、と釈尊は考えていた。煩悩をなくすのではなく、煩悩に振り回せられない生き方をする。これは簡単なようで容易ではない。


 田上太秀(2000)は『人間ブッダ』(第三文明社、レグルス文庫)で

「釈尊は心と肉体は一つで、分けることができないと考え、肉体を痛めつけることによって心の純化は得られないといい、肉体を痛めつけると、同時にそれは心を傷つけることになり、肉体が苦しむと心も苦しみ、疲れてしまうと説きました。快楽の生活と苦行の生活は極端な生き方で、これらを離れたバランスのとれた、適正で中正な生き方が正しい生き方であるというのです」(47)。

 「サルナートのミガダーヤ(鹿のいる園)はベナレスの郊外にあり、古くからヒンドゥ文化の中心地でした。多くの聖者たちが集まり、修行していた場所として宗教的に特別の意義がある聖地でした。ここにかつて苦行林で一緒に修行していた5人の仲間がいました。彼らは、釈尊が村娘が与えた乳粥を飲んだのを見て、苦行者に禁じられている乳を飲み、苦行を捨て、堕落したと考え、釈尊と決別し、ここミガダーヤに来て、修行していたのです。5人は既に多くの修行を積み、古来から伝わる学問も学んでいました。しかしそんな彼らは釈尊の説法を聞くと、従来の宗教や哲学が伝えている思想を根底から覆す教えであったので、すぐには納得できなかったようです。しかしいろいろの比喩を使ったわかりやすい説法を聞いて、彼等の理解は日を追って深まり、ついに釈尊と同じ境地を得ることができました。そこで釈尊は「いま6人の阿羅漢が誕生した」と彼らに告げました。ここに最初のいわゆる弟子が誕生しました。阿羅漢とは最高の聖者というほどの意味です。注意しなければならないことは、釈尊は自分のもとに5人の弟子ができたと告げたのではなく、自分と等しく最高のさとりを得た聖者が6人誕生したと喜びを表現したのです.つまり彼らは真理を理解し,その法に基づいて修行し、その法を共有する仲間です。釈尊には生涯を通して、自分が修行者の集まりのリーダーであるとか、帰依者の師であるとかの気持ちがなく、また、そのような態度で話すこともありませんでした」(49)。