修士論文要旨
「宗教は何のためにあり、宗教はどこへ向かうのか」。宗教の問題を深く考えようとしたきっかけは、フランスの哲学者アンリ・ベルクソン(1859~1941)が、宗教に「開かれた宗教」と「閉ざされた宗教」があるという刺激的な言葉に出あった時である。
なかでもベルクソンはキリスト教こそ「開かれた宗教」であり、仏教は「閉ざされた宗教」である、との論陣を張った。佐藤康邦(2010)は、「閉ざされた宗教」とは「呪術や迷信や儀式によって社会秩序を維持するために存在している宗教」(p233)という意味である、と言う。
筆者は仏教を学ぶ立場から、果たしてベルクソンの言うように仏教を「「閉ざされた宗教」と決めてしまって良いものかどうか、疑問をもった。筆者は、実践の仏教と言われる「法華経」、しかもわが国が生んだ行動の人・日蓮の「法華経」の立場から、論理的に論を展開していく。
具体的には――
1、「法華経」の概略。
2、中国の天台の『摩訶止観』「一念三千論」から見た釈尊と日蓮の違い。
3、日蓮の法華経は「開かれた宗教」の条件を満たすかどうか。「戦争と平和」「文化」「対話」「女性」などの視点から見る。
4、ベルクソンと日蓮の「生命」に関するとらえ方。
5、日蓮仏法の特色。
6、日本の仏教から何を発信するか。
と、筆者は「開かれた宗教」に関して論及する。
わが国で既成宗教の側から、最近、儀式中心の考えに疑問の声が上がり始めている。僧籍にある人も「社会に起きている、あるいは起きようとしているさまざまな『いのち』にかかわる難問(四苦)にアクセス(接近)する。そしてその難問に対して、支えの本性(利他心)を発動させ、四苦に寄り添いながら、課題の解決を図っていく、という役割を担うのが坊さんであり、その拠点として寺がある」と語る。
一方、新宗教の動きからも目が離せない。日蓮系の「創価学会」「立正佼成会」「霊友会」、戦前からあった「天理教」、「PL教」「金光教」などがボランティア活動、宗教間対話を積極的に繰り広げている。筆者は、それぞれのホームページから最近の各教団の活動を紹介した。
ハーバード大学のハービー・コックスは、次の3つの条件を挙げて、宗教の未来を予測している。
それは、世界がグローバル化(With globalization)していく中で、
① 階級主義的から平等主義へ
② 僧侶階級から一般市民の信徒がリーダーシップを発揮
③ 教条主義から実践的な方向へ
――この方向に向かっていくとき、宗教は民衆の支持を受けるであろう、と予測しているのである。
玉城康四郎(1986)は、「個性ある仏教思想が出現するかどうかわからないが、もし出現するとすれば、1500年にわたるこれまでの日本仏教の歴史は、そのための準備期間と考えねばなるまい」、と大きな期待を寄せている。
筆者も信教の自由が保障されているわが国にあって、各宗教が自らの使命にめざめて発展していってもらいたい、と願うのみである。
(この論文は東京大学名誉教授・佐藤康邦先生〈西洋哲学〉と東京大学教授・頼住光子先生〈仏教〉の指導の下作成しました)