流れる時間 | ノートさんのブログ

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4-3 時間に関するベルクソンと日蓮の考え方

★流れる時間だけが真の時間

ベルクソンの考える時間を澤瀉久敬(1973)は、「要するに、時間の流れを知らせるのは意識なのです。というよりも、時間とは意識であり、意識とは時間なのです」(p42)と述べている。

一方、菅野博史(1992)は、「『一念』は時間的な概念で、きわめて短い時間を意味する……ともあれ、摩訶止観には、一心、一念心、一念という三種の表現が出るが、どれも具体的には、我々の現在一瞬に働く心を指していると考えてよいであろう」(p170)と。

筆者は、ベルクソンの「意識」の概念と法華経で説く「一念」とが非常に酷似していると考える。

4-4 「生命の永遠性」に関するベルクソン、日蓮の立場

「生命の永遠性」に関して、ベルクソン、日蓮はどのような立場だったのだろうか。

★連続的変化によってたえず別のものに

V・ジャンケレヴィッチ(1988)は、「人間とは、現存しないといってもいいくらいの、あいまいな何だかわからないものである」「宇宙はすでにでき上がってしまっているものではなく、現に生成しつつあるものなのである」(p36)と記述する。

一方、「四劫」という概念が仏教にはあり、1つの世界が成立し、流転、破壊を経て、次の成立までを4期(成・住・壊・空)に分けたものである。

科学者の川上伸一(2005)が「大気上層で酸素分子は生成と消滅を繰り返している」(p209)と述べているのも面白い。 ベルクソンが思索した生命、宇宙の概念が、仏教の成・住・壊・空の考えと極めて似ており、今後の研究が待たれる。

4-5 日蓮は「死」をどうとらえたか

日蓮は「死」に関してどうとらえていたのであろうか。人間は(あるいは動物、植物も)、自分の「生」と「死」を自分で確認することはできない。自身の「生」すなわち誕生は、両親や周りの人たちに、いつ、どこで生まれたかを後になって教えられ、確認するしか方法がない。また、「死」に関しては、本人は全く関知しない。生まれた人は必ず死ぬ。それほど不思議なのが、「生」と「死」である。

★死の受容の仕方に差

E・キューブラー・ロス(1959)の『死ぬ瞬間の対話』に次の一節がある。「死にゆく患者とあなたのご経験で、キリスト教徒の患者とそうでない患者とでは、死の受容のしかたに差があると感じましたか?――わたくしたちは非キリスト教徒よりはキリスト教徒の患者を看護した数がはるかに多うございました。顕著な差異は、たんに何を信仰しているかではなく、いかに真実に純粋に信仰しているかに現れます。再生を信じている人々、あるいは東洋の文化で育ち東洋の宗教をもっている人々は、ごく若い年齢のものでも、信じられないくらいの平和と平静さとで死を受容することがしばしばでした」。

キューブラー・ロスが指摘するように東洋の宗教をもっている人が、どうして「死」を平静に受容できるのだろうか。女史は宗教と死について大きな問題を提起したと言えよう。

★即身成仏

 「即」とは何か。「デジタル大辞泉」の解説.では、1、[名]仏語。二つのものが互いに表裏の関係にあって分離できない状態。2、[副]ただちに。すなわち。「言われたら―実行する」。 3、[接]前者と後者とが同じであることを表す語。とりもなおさず。すなわち。「学者―教養人とは言えない」と。

筆者は、仏教で使用されている「即」を単純に、上記の「3」「同じ」「イコール」と解釈してはならないし、「1」の解説でも不十分である、と考える。「煩悩=菩提」「地獄=寂光」という意味ではない。煩悩が菩提とイコールでは、仏道修行の意味がない。この難問に果敢に挑戦したのが、釈尊であり、日蓮だった。日蓮における「即」とは六道の凡夫が永遠の生命を覚知し、仏界を顕現していくことである。それが「事の一念三千論」である。