4-2 ベルクソンの「生命の躍動」と日蓮の「仏界湧現」
★ベルクソンの「生命の躍動」と日蓮の「仏界湧現」
ベルクソンは、佐藤康邦(2010)(「開かれた道徳」)は、「自分自身や自分が属する集団の利害を超えた愛、強制によるのではなく、魅惑されることによって引き起こされるような人類全体への愛、否、それすらも超えて動物や植物にまで及ぶ愛に基づいて形成された道徳なのである」という。ベルクソンは偉大な神秘家によってもたらされる愛が人類だけでなく、動植物にまで及ぶと考えていた。
一方、日蓮も「草木成仏」を論じ、すべての衆生の成仏が可能であり、「仏」との感応(仏界湧現)によって、人類を根底から救っていこうとしていた。しかし、筆者の研究では、ベルクソンの「生命の躍動」と日蓮の「仏界湧現」が極めて似ている、との推論にとどめる。
★信ずることの難しさ
日蓮は信ずることの難しさを次のように記述する。「此経難持の事、抑弁阿闍梨が申し候は貴辺のかたらせ給ふ様に持つらん者は現世安穏後生善処と承つてすでに去年より今日までかたの如く信心をいたし申し候処にさにては無くして大難雨の如く来り候と云云、真にてや候らん又弁公がいつはりにて候やらん、いかさまよきついでに不審をはらし奉らん、法華経の文に難信難解と説き給ふは是なり、此の経をききうくる人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、受くるはやすく持つはかたしさる間成仏は持つにあり」(御書p1136、四条金吾殿御返事)。
ただし、日蓮は理論だけで納得できない信仰という面を文・理・現の「三証」として提示したのである。
★不明確な暈の地帯
佐藤康邦(2010)は「ベルクソンの生の哲学」の項目で「生命の内的な運動は、機械論や目的論等の知性による『凝縮した』形式に従うだけの探究では十分ではなく、その周辺の不明確な暈(かさ)の地帯においても探究されるべきである」(p229)と記述し、『生命の跳躍』のためには、佐藤康邦(2010)「自己自身と格闘し、他の社会と格闘しながら、絶えず前進していく」(p233)ことが不可欠となる、という。
檜垣立哉(2000)「変化である実在がもっとも的確に表現されるのは、生命の領域においてである。生きているものは、成長であるにせよ老化であるにせよ、つねに別のものになりつつあるものである」(p4)との記述がある。こうした生命の変化は「記述不可能」(p2)、と檜垣は言う。筆者もそう思う。
★仏界計り現じ難し
釈尊の場合を見ておく。田上太秀(2000)「ブッダになるためには修行が必要です。では、ブッダになることは修行が成就することですから、そのあと修行しなくていいのでしょうか。そうではありません」(p38)と、釈尊も生涯、道を求めていく人でした。
日蓮は「仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ」(御書p241、如来滅後五五百歳始観心本尊抄)と述べている。結論から言えば「仏界」を言葉で説明することは難しい、と日蓮は言っているのではないか。
ベルクソンが生命を持続としてとらえている見方と日蓮の生命の把握も、言語を超えた部分があるのである。それは、『生命の跳躍』も『仏界』も言葉で表現するという限界を超えているからである。
★悪を封じ込めて外に追い出したかったベルクソン
「私たちは、できることなら悪を私たちの外に追い出しそこに閉じ込めておきたいと思うだろうし、悪とのよろしくないつきあいを避けるためには、不可能なことでもやろうとするであろう。しかるに、悪は私たちのうちにある」(『アンリ・ベルクソン』V・ジャンケレヴィッチ 阿部一智他訳 p237~238)。ベルクソンは、悪を封じ込めて外に追い出したいのだが、不可能だ。それは、悪が私たちの中にあるからである、という。
私たちの生命には、元々善も悪も内在している。この考えは仏教の思考と非常に似ている。釈尊も、出家した当初、己の生命に内在する煩悩の悪を叩き出そう、と厳しい修行を続けたのである。釈尊は最終的に、悪をたたき出すのではなく、悪に負けない善の力を強めようとして「法華経」を説いたのである。