3―3 対話重視の発想
日蓮は対話を重視した。しかし、日蓮を自己主張が強く、排他的で、闘争好きである、というイメージが常につきまとっている。内村鑑三も『代表的に本人』で「闘争好きを除いた日蓮、これが私どもの理想とする宗教者であります」(p177)と記述する。
最初に「宗教的寛容」について考える。
★宗教的寛容
小田淑子が『岩波講座 宗教 10 宗教のゆくえ』(2004)で、宗教の寛容について「真の寛容は、相手を自分たちとは異質な他者として認めたうえで、同じ社会に共存する仲間と認めることである」(p230)と記述する。
筆者も小田淑子の論点は理解できる。しかし、現実問題として、どんな宗教でも仲間として認めることができるか、となると人々の理解を得るのはなかなか難しい。例えば、過去に殺人事件を起こした宗教団体が「私たちは生まれ変わりました。以前のような無差別殺人は起こしません」などと誓い、自分たちの住む町に拠点を築こうとした場合、果たしてどれだけの人が宗教的寛容さで、「共存する仲間」として受け入れることができるだろうか。
内村鑑三(2004)は日蓮が「辻説法」を行ったと記述している。果たしてどうか。
★辻説法
内村鑑三(2004)は「日蓮は、1254年の春、この国では最初の辻説法を開始しました。」(p163)と記述するが、佐藤弘夫(2005)は「現在も鎌倉市内には小町通り沿いに、日蓮の辻説法の跡といわれる場所が残されている。(中略)その点を裏付ける史料は皆無である。(中略)不特定多数の人々にやみくもに法を説いたというよりは、知己のルートをたぐって一対一の対話を重ねながら着実に理解者を増やしていった」(p73~74)と言う。
筆者も、日蓮は辻説法を行っていないのではないか、と推察する。その理由は、1つは日蓮の『遺文』に「辻説法」の語句が見当たらない、2つは、日蓮は不特定多数の聴衆に説法するより、社会的にも効果がある「公場対決」を望んでいた、3つに日蓮の布教は「対話」を重視する方法が取られている、からである。
日蓮と公場対決について考える。
★公場対決
公場対決とは、公の場で国王・大臣などが出席し諸宗の正邪・勝劣・浅深を判定した方法である。中国では天台大師が「南三北七」の十師と対決し勝利し、日本では伝教大師が「南都六宗」(南都とは奈良。六宗とは三論・法相・成実・倶舎・律・華厳)の教義を破っている。
日蓮も「法華経と大日経と天台宗と真言宗との勝劣は月支日本未だ之を弁ぜず西天東土にも明らめざる物か、所詮天台伝教の如き聖人公場に於て是非を決せず明帝桓武の如き国主之を聞かざる故か」(御書p1002、大田殿許御書)と記述し、文永5年(1268)10月11日には、北条時宗をはじめ11ヶ所へ書状を出し、公場対決を迫っている。すなわち、日蓮は諸宗に討論を呼びかけたが、実現しなかった。
『立正安国論』は「対話形式」で構成されている。日蓮の対話の姿勢について見てみよう。
★「対話形式」の重視
日蓮の著書に『立正安国論』があり、この論文は「対話形式」で構成されている。
「旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭飢饉疫癘遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり」(中略)「主人の曰く独り此の事を愁いて胸臆に憤悱す客来つて共に嘆く屡談話を致さん」(御書、立正安国論p17)。
佐藤弘夫(2005)「文応元年(1260)7月16日、宿屋入道という人物を介して幕府の事実上の権力者、前執権北条時頼に提出した」(p90)と記述するように、日蓮は「立正安国論」を幕府に上程した。ところが、上記の「立正安国論」を読めばわかるように、日蓮の中には特権的地位を獲得するというような考えは全くなかった。日蓮の中にあったのは、ただただ飢饉で苦しむ庶民であった。