第3章 日蓮の法華経は「開かれた宗教」の条件を満たすか
筆者は、日蓮の著作から「開かれた宗教」の条件を考察する。万人、否世界の人たちに開かれた宗教となるには、幾つかの条件があるのではないか、と考え、日蓮の行動面を数点にわたって論じていきたい。
3―1 戦争に反対し、平和を築こうとした
筆者は、世界の安定があって、初めて一人一人の幸福もある、と考える。それには、殺戮を目的とした戦争に断固として反対する信念が「開かれた宗教」には要求される。
★戦争に反対し、平和を構築
「開かれた宗教」の最大の関門は、「戦争」に反対し、どのように平和を築こうとしているかにかかっていよう。カントも佐藤康邦(2010)「戦争のない、恒久的な平和」を理想とし、ヘーゲルは「国家は、国民が兵士として戦場において死を賭して戦うということを不可欠の倫理的支柱とすると考えていた」(p178)と記述する。一方、ニーチェは、佐藤康邦(2010)「個人では決してなし得ないような暴力を行使するもの」(p202)と定義している。ベルクソンにとって、戦争はなんとしても避けなければならない課題であった。
何人かの哲学者の戦争観を紹介したが、日蓮は、「一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」(御書、立正安国論p31)と記述し、自らの安穏だけではなく国の安泰をも考えていた。
★蒙古の使の頚を刎られたことこそ不憫
日蓮の存命中、蒙古襲来が二度あった(1274年と1281年)。日蓮は、蒙古国の使いが首を切られたことに関して「科(とが)なき蒙古の使の頚(くび)を刎(はね)られ候ける事こそ不便に候へ」(御書、三三蔵祈雨事P1472)と述べている。蒙古の使者を問答無用で殺害したことに不憫だと感じていたようだ。日蓮の生命尊厳の思考からすれば、蒙古との対話による解決を望んでいたのかもしれない。仏教では「殺生」を厳しく禁じているので、人と人が殺しあう戦争を認めるわけがない。
「殺生をなす者は三世の諸仏にすてられ六欲天も是を守る事なし」(御書、主君耳入此法門免与同罪事 P1133)との一節がある。仏教には「不殺生戒」がある。もし日蓮が存命なら、殺人を目的とする核戦争などを日蓮は認めるわけがない。
★仏教こそ世界平和を語る資格
小林正博(2009)は、「――仏教は、世界平和を語る資格を持つ唯一の世界宗教である。キリスト教やイスラム教は異教徒を弾圧、制圧して侵略の歴史を持つが、仏教は他宗教に対して寛容であり、殺戮や宗教戦争とは無縁の平和の宗教である。人はだれでも平和を望み、争いを避ける。個人の次元では反戦平和は普遍的欲求である」(p125)と述べている。
渡辺和夫・鈴木力衛(2010)『増補 フランス文学案内』に「宗教戦争は、旧教徒が新教徒を皆殺しにしようとした聖パルテルミーの大虐殺(1572)を機に予測のつかない状態になるのです」(p69)と記述する。キリスト教の歴史もバラ色の時代だけではなかった。一方、「仏教は世界平和を語る資格」がある、と小林正博は断言している筆者は、小林正博が平和の宗教のさらなる台頭に期待していると思う。