★下種仏法
(5)仏種
「一念三千説が一切衆生得道の原理であると言われる理由として、十界互具が取り上げられるのは、成仏の理論的説明としてである。このことも、日蓮に特徴的な解釈であるが、日蓮はより端的に、一念三千を『仏種』と表現する」(p69)
衆生の生命に仏種を植えていくので、日蓮は末法の法華経を下種仏法と言った。
筆者は、日蓮の著作から次の文章「詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏木画二像の本尊は有名無実なり」(御書p246、観心本尊抄)を見つけた。
筆者は、天台が展開した「一念三千論」でなければ、本尊開顕の意義が確定しない、と考える。また、情非情を含めて「生命」ととらえる点が仏法の深さではないか、と考える。
★種熟脱の法門
(6)仏種=南無妙法蓮華経
「一念三千の仏種は、末法今時においては南無妙法蓮華経にほかならないとされる」(p70)
菅野博史(1992)の「仏種=南無妙法蓮華経」という分類は、いきなり結論から出ているのでわかりにくい面もあるので、「種熟脱の法門」に触れたい。日蓮は、「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(御書1056、曾谷殿御返事)と記述する。最高の法華経の種を仏が衆生に植えることによって、その植えられた種が熟して脱穀まで至るという例えである。日蓮が「今末法に入りぬりば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(御書p1546、上野殿御返事) と記述するように、日蓮は「法華経」と「南無妙法蓮華経」の違いを厳しく強調している点をよくよく考慮にいれなければならない。
★大難があるかどうか
(7)理と事
「日蓮は自己の一念三千を本門、事と言うのに対し、智顗の一念三千を迹門、理と規定している」(p71)
「一念三千」の「理」と「事」の差はどこにあるのか。それを筆者は法華経の予言どおりに大難にあったかどうか、が大事だと考える。
日蓮は、釈尊と自身の難の大きさを「法華経」を引いて論証している。「法華経に云く『而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや』云云」(御書p1189、聖人御難事)。この文章は釈尊の在世よりも末法で法華経をひろめる行者のほうが難が一段と激しい、と言っているのである。この難の激しさが正しい法かどうかを見分ける基準だ、と経文には出ているのである。
★曼荼羅本尊の根拠
(8)非情成仏の原理=曼荼羅本尊の根拠
「一念三千説は一切衆生の成仏得道の原理であると言われるが、実は衆生の成仏であるばかりでなく、非情成仏の原理でもあり、曼荼羅本尊もこれに基づく」(p72)
「本尊」とはどういう意味か。本尊とは、元々尊い、または、根本として尊敬する、という意味である。世間で言われている「鰯の頭も信心から」というのは、何の根拠もない、暴論と言わざるをえない。
日蓮は本尊に関して「本尊とは勝れたるを用うべし」(御書p366、本尊問答抄)と記述するが、「非情成仏の原理」として重要である。法華経迹門の「十如是」、「十界互具」、法華経本門の「三世間」の義を日蓮が末法の法華経として自身に引き付けて現したのである。