所沢のはずれで仕事が早く終わって、少し歩こうかと東村山に向けて住宅地を歩いていたらちょっとしたたたずまいの、静かな寺があって、見ると時宗と書いてある。
(所沢市の時宗寺院 長久寺)
時宗と言えば一遍上人を開祖とする阿弥陀仏信仰の一派である。私は無宗教な人間で仏教に深い知識があるわけではなく、まして時宗という一宗派についての知識など皆無に等しい。ただ一遍上人については「踊り念仏」の人だというだけでなく、若い頃に読んだ和讃「百利口語」の言葉の激しさ、新鮮さに撃たれた記憶があり、あまり見ることのない時宗の寺を見てそんなことを懐かしく思い出したりした。
六道輪廻の間には ともなふ人もなかりけり
独りむまれて独り死す 生死の道こそかなしけれ
或は有頂の雲の上 或は無間の獄の下
善悪ふたつの業により いたらぬ栖(すみか)はなかりけり
然るに人天善所には 生をうることありがたし
百利口語(ひゃくりくご)
(一遍上人像 藤沢市 清浄光寺(別名遊行寺))
一遍上人(1239 -1289)の生きた時代は鎌倉時代中期、仏教界では釈迦の入滅2000年を経てその教えが正しく行われない末法の時代に入ったとされていた。平安末期から鎌倉時代にかけての戦乱の時代、武士の台頭や治安の乱れ、さらには仏教界の退廃など、民衆の目にも世は不安に満ちた終末の様相を呈していた。そんな時代に家も土地も捨て、寺も持たずに全国を遊行する。何もかも捨てて遊行へと旅立つ、だから「捨て聖」とも言われた。遊行は今の時代からは想像もできない、草深い道なき道を行くような過酷な旅、命のかかった旅だったろう。
暫くこの身のある程ぞ さすがに衣食(えじき)は離れねど
それも前世の果報ぞと いとなむ事も更になし
詞(ことば)をつくし乞ひあるき へつらひもとめ願はねど
僅かに命をつぐほどは さすがに人こそ供養すれ
それもあたらずなり果てば 飢死こそはせんずらめ
死して浄土に生まれなば 殊勝の事こそ有るべけれ
世間の出世もこのまねば 衣も常に定めなし
人の着するにまかせつつ わづらひなきを本とする
小袖・帷子・紙のきぬ ふりたる筵・蓑のきれ
寒さふせがん為なれば 有るに任せて身にまとふ
命をささふる食物は あたりつきたるそのままに
死するを歎く身ならねば 病のためともきらはれず
よわるを痛む身ならねば 力のためとも願はれず
色の為ともおもはねば 味わいたしむ事もなし
善悪ともに皆ながら 輪廻生死の業なれば
すべて三界・六道に 羨ましき事さらになし
百利口語
一遍上人は阿弥陀仏信仰の人で、旅の道々人々の前で踊りながら念仏を唱え、「南無阿弥陀仏」の6文字を書いた木算を配って歩いた。踊り念仏について、一遍は「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで踊りたくなるうれしさなのだ」と説いたと伝わっている。
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では、一遍上人の教えとはどんなものだったのか、少し調べてみた。一遍上人語録の中にこんな言葉がある。興願僧都という人への返事の文である。
念仏の行者は智恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、
地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟をもすて、一切の事を
すてて申念仏こそ、弥陀超世の本願に尤かなひ候へ。
・・・・・・善悪の境界、皆浄土なり。外に求むべからず、厭うべからず。
よろづ生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずと
いふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。
・・・・・・・念仏は安心して申も、安心せずして申も、他力超世の本願にたがふ
事なし。弥陀の本願に欠けたる事もなく、あまれることもなし。この外にさのみ
何事をか用心して申べき。ただ愚かなる者の心に立ちかへりて念仏したまふべし。
南無阿弥陀仏。
一遍上人は観念的な思惟よりも、ひたすら六文字の念仏を称える実践に価値を置いたとされる。念仏を唱えれば阿弥陀仏の本願により往生可能であり、そこには信じているとか信じていないとか、心の浄不浄といった人智とか人力の介在する余地はなく、仏のはからいがあるだけである。「南無阿弥陀仏」の名号をとなえればそこに浄土がある。「善悪の境界、皆浄土」なのである。浄土はどこか他の場所にあるものではない、浄土は自然の中にも人の心にも本来的に存在するものと考えていたのだろう。そうでなければ念仏を唱えることで湧き上がる「うれしさ」を理解できないような気がする。自身の内なる浄土に大いなる喜びを感ずれば踊ることは極めて自然なことのように思える。舞踏の本義は宇宙との一体化と言われる。自身の内なる宇宙=浄土と一体となる、そういう「踊り」だったのだろうと考えられる。
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一遍上人は1289年50歳で亡くなっている。その死に臨んで「我が化導は一期ばかりぞ」と持っていた書物のうち少数を書写山の僧に託して奉納した後、手許に残った自身の著作や書物すべてを「阿弥陀経」を読み上げながら焼却したと伝わっている。「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と宣言して教学体系を残さなかったし、宗門を開くこともなかった。「時宗」は一遍上人を追慕する弟子たちによって開かれ、その事績や教えも弟子たちによって編纂されたものである。素人考えかもしれないが、法然の「他力」や親鸞の「絶対他力」を遊行という実践によって突き抜けてしまったような教えに思える。過激と言えば過激、シンプルと言えばシンプル、そんな印象を持った。
身を観ずれば水の泡 消ぬる後は人もなし
命を思へば月の影 出で入る息にぞ留まらぬ
別願和讃
(時宗総本山 清浄光寺、別名遊行寺)
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以下、余談。
一遍上人の遊行には時に尼僧を含む数十人の弟子が付き従っていたといわれ、それらの多数の弟子たちが念仏踊りの時には救済される喜びに衣服もはだけるほどに激しく踊り狂い、法悦境へと人々を巻き込んでいった。集団的なトランス状態のようなものが生じたのだろう、眉をひそめる向きもあり批判を浴びたこともあるようだが結局は一大ブームになったらしい。そうした流れから、やがて時を経て念仏踊りは宗教性よりも芸能に重点を置いたものへと変化、盆踊りの原型となり、能や歌舞伎にも影響を与えた。また、時宗では男子の法名に「阿弥」をつけることが一般的で、能の世阿弥や観阿弥も時宗の人であったことがうかがわれる。