鑑真和上の寺として知られる唐招提寺。律宗の総本山とあるが伽藍は決して大きくはない。写真は南大門だが東大寺の南大門とは較ぶべくもない小ささなのだが、それでも松の青葉が美しく風情がある。質朴の風があるのだろう。お隣の薬師寺とくらべても、参拝客の姿も少なく個人的にはその静けさを堪能できたことはうれしかった。
高校の美術の授業で唐招提寺のこの金堂の柱はエンタシスであると習ったが、ギリシャからシルクロードを通して伝来したという説に証拠はないらしい。一方で柱の下方がわずかに膨らんだ「胴張り」の柱というのは韓国など東アジアには時々見られるのだという。以前ここを訪れた時には、おお、これがエンタシスの柱かと、歴史ロマンに心躍らせたものだったが、知ってみると、ちとがっかりではある。それでも由来がどうあれ、まっすぐなだけの太い円柱が武骨に8本並んで威厳のようなものを漂わせるよりは、はるかに親しみやすいというか、温かみを感じさせる優れたデザインだろう。
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センチメンタル・ジャーニー、または感傷旅行。
50年前と変わらぬ伽藍の風景は束の間、私を過去への感傷旅行に誘い込む。その時、私は恋人とここにいた。私はその「エンタシス」の柱に寄り添って立つ彼女を写真に撮り、彼女は替わって私を撮った。その写真を私は今も捨てずに持っている。これ以上ない幸福な付き合いであったとずっと思っている。だから写真と言って捨てる理由がないのだ。私たちはようやく学生気分を抜け出し、一人前の大人の世界へ歩みだす、そんな準備のようなものにとりかかり始めた時期で付き合いにも分別のようなものを感じ始めていた。やがて彼女は就職が決まり、私は夢を追ってフリーター状態を続け、私に安定した生活を求めるのは無理と知って私の元を去っていったが、別れる時も笑顔でさようならを言い、それから1年ほど経って結婚の報告を受けた。それからさらに数年後、私の母が新宿のデパートでばったりと彼女に出会い、その場でハンカチを買って彼女にプレゼントしたらしい、お礼の手紙が姓の変わった彼女から届いた。
それからどうしただろうか。幸せな結婚生活を全うしているだろうか、もう孫がいても不思議でない年齢だ、町ですれ違っても全く気がつかないだろう。そんなことを考えながらしばし時が止まったように休憩所横のベンチにすわって風を見て過ごした。
遠い過去の自分がよみがえる。これを単なる記憶とか思い出と終わらせていいのかどうか、私は躊躇する。それは過去ではない。今の自分の心の奥深く私の気づかぬところでに息づいていた何かであることに違いなく、現在の私を形作っている何かなのだろう、そう思わざるを得ない。これは感傷ではない。これは私の個人史のほんの1シーンだが、実は生まれてこの方、現在に至るまで、過ごしてきたすべての時間が私たちの心の中に降り積もり、音もなく静かに息づいているのではないか、そうでなければ日々生きることの幸せや苦しみ、喜びや悲しみを豊かさへと変えていく、そんな手立てすら私たちは失うことにならないか。私はそう信じる。
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さて。
写真は鑑真和上の廟所。見たいと思っていた国宝の鑑真和上像は今は年に数日しか公開されないらしく、しかもこの日は京都の国立博物館にご出張中で不在。それで廟所にお参り。
鑑真和上は日本への渡航に5回失敗し、753年6回目でようやく日本に来ることができたが、その時66歳
。それから76歳で亡くなるまでの10年間、仏教者に戒律を授ける「伝戒の師」として東大寺に日本で最初の戒壇を築き、多くの授戒を行った。戒律を守れるものだけが正式に僧として認められるようになり、国分寺がその僧を管理することになることで、仏教が日本に正しく根付くための土台が初めて出来上がったと言えるのだろう。以来1250余年、和上はここに眠っておられる。
合掌。