その9 死んではいけない | ココハドコ? アタシハダレ?

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自分が誰なのか、忘れないための備忘録または日記、のようなもの。

現在休職中である。

 

7月まで働いていた警備会社を70歳定年というわけで誕生日前日付けで追い出された。いや、70歳まで使っていただいたのだ感謝しなければいけない。警備業界は万年人手不足で70歳過ぎても雇ってもらえる会社はいくらでもある。交通誘導警備2級という検定資格も持ってる、その気になればいつでも復職できると自分では思っているのだが、半年以上ものんびり、まったりと過ごしてしまうと、「もういいや、働くのやめよっ!」という声が気のせいか聞こえてくる。新型コロナもあって、それをいいことに復職を渋っているにすぎないのだが、それなりに極力外出は控え、会いたいと思う友人も何人かいるのだが、半年間で会ったのはひとりだけ、その彼とは日光方面に紅葉を見に車で出かけたが、外出らしい外出もその一回きりで、地元の田園風景を眺めつつ散歩でもするか本を読むか、ホント誰にも会ってない。電話で話すことも数えるほどしかなかった。よく「鬱」にならないものだと自分でも思う。

 

ところで「鬱」と言えば、続けて「自殺」という言葉が浮かんでくる。

実際、このコロナ・パンデミックで自殺が増えたらしい。それも女性の自殺が増えているのだそうだ。念のためと思って厚労省が発表している自殺統計を見てみた。確かに去年の夏から秋にかけては自殺者数は急激に増えている。これについて、10万円の特別給付金をもらったもののそれも使い果たしたところでコロナ第2波、仕事に戻れず生活に困窮した果てに、、、というような記事をネットのどこかで読んだ記憶がある。不愉快になってほとんど読み飛ばしてしまったが、そんな単純なことで人は自殺するだろうか。生活の困窮などその人を追い込んだ要因のひとつではあるだろうが、そこから実際に「自死」を選び、それを「実行」するまでの距離というのは相当遠いはずだと思うのだがどうだろう。私が不愉快になったのは、そのあたりの記者の想像力の貧困というかデータさえ示せば素人でも思いつきそうな「原因」をあげつらって記事にしてしまう安直さにあきれてしまったのだ。

 

それはさておき、この1,2カ月自殺者数は収まりは見せている。暗い気分になりたくない自分としてはいくらかほっとしている。

では何があって自殺するのだろう?死ななくてはならないほどの苦しみやつらさとはいったい何のことだろう?

 

私には自分の肉体について「これは自分のものじゃない」という思いが強く、これを殺す権利は自分にはないのだと、ずっとそう思ってきた。まだ20代の若いころ、ある病気で一年ほど思うように運動もできず、ひどい時には自分は明日にでも死ぬんじゃないかとおびえて過ごした時期を経験した私は、その時息が上がり、心臓が震え、全身が痙攣すると次の瞬間、ほんの瞬間ではあるが体が楽になるのを知って、「ああ、体が治ろうとしている」と、私の心にわだかまる死に対するおびえや恐怖心といった感情、思いとは関係なく、肉体は肉体で自立(自律)した意思をもって治ろうとしているということを、その時はっきりと知ることができた。肉体はたとえ病気であっても自ら治ろうという働きを持つ限り、極めて健康な存在だということを知らなければならない。まして、それを殺していい理由が私には見つからないのだ。

 

失意、後悔、絶望。そこから湧き出る哀しみ、苦しみ。それを少し距離を置いて眺めてみる、ということはできないのだろうか?

苦しみのどん底で喘ぎもがいてる自分を「がんばれ」と励まし「よくやった」とほめてあげる自分というものを持てないだろうか?

そう、「たしなむ」という言葉がある。酒をたしなむとか茶道をたしなむとかいう、あの言葉。「人生をたしなむ」とか「苦労をたしなむ」とかそういう発想の転換はできないものかと思う。

私のような「団塊の世代」とか「戦後っ子」と言われた世代の親はほぼ全員戦争に駆り出された世代で、私の父など「人生楽あれば苦ありというが、9割は苦で楽は1割もあればいいほうだ」とよく言っていた。9対1では割に合わないとは思うが人生に失意、後悔、絶望はつきものなのだ。生まれてから死ぬまでずっと「楽」な人生などどれだけつまらない人生かと思う。何のドラマもない人生、私には耐えられない。

 

死んではいけない。自分を殺してはいけない。生きていることには意味があるのだから。

いや、生きていること、それ自体が「意味」なのだ、それを信じなくてはいけない。

 

私はそう思う。

 

 

 

 

 


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