ココハドコ? アタシハダレ?

ココハドコ? アタシハダレ?

自分が誰なのか、忘れないための備忘録または日記、のようなもの。

 日本橋の三井記念美術館で開かれていた「円山応挙展」に行ってきた。24日、展覧会楽日のことである。たまたま友人と電話で話をしていたら、この展覧会の話題になって、じゃあ、一緒に行くかという事になったのだが、互いの都合が合ったのが最終日という事で、ちょっと混むんじゃないかと心配したが、案外のんびり鑑賞できたのは意外だった。

 

(遊虎図襖 重要文化財)

 

 私には日本絵画についての知識など何もなく、円山応挙についても、せいぜい「虎を描いた人」くらいのおぼろげな知識がある程度。高校か中学の美術の教科書に載っていた、その「虎の絵」が今回展示された襖絵であるのかどうかも記憶がはっきりしないので判然としない。

 

 しらべてみると、円山応挙(1733-1795)という人は江戸時代中期から後期にかけて活躍した絵師で「写生」を重視した人らしい。そういえば展覧会のチラシやサイトでも「写生」という言葉を散見した。ただし、花鳥をありのままに描く「写生」は鎌倉時代からすでにあったらしく、狩野派などでも探幽が「写生」を能くしたようである。

 だから「写生」という創作態度自体は応挙のオリジナルというわけではなさそうだが、鯉や猿を描いた作品(撮影不可でした)を見ると、まさに生きている、そういう見事さには目を奪われてしまう、そんな感想を持った。この見事さは、少し後の葛飾北斎などにも見ることができるのだが、どうも西洋の「写実主義」などともどこか根本的に違うところがあるような気がする。

 

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(雪松図屏風 国宝)

 

 日本画に限ったことではないのだが、水彩画や水墨画を見るたびに思うことがある。それは、紙であれ布であれ、一度そこに落とされた線も色彩も決して修正できないだろうということで、これは修正可能な油絵とは全く異なる製作態度を求められている、そういうことだろう。

 人物の柔らかな1本の輪郭線を引くにも、引く前から引くべき線が見えていなくてはならぬ、そのためにどれだけの修業を要するのだろうと、私はそういう想像から逃れることができない。

 そして、それが屏風絵や襖絵のような大作になればなるほど、描かれる以前に見えていなくてはならぬ全体像が作者の中にはあるはずで、その全体像のために、どれほどの時間が費やされ、どれほど多くの線が引かれ、習作が重ねられてゆくのだろう。そんなことを考える。

 上の「雪松図屏風」の細部を子細に見ても針のような松の葉の1本1本が実に精緻に描かれているのがわかる。どれもただの線ではなく先端の尖った「松の葉」としてそこに存在しており、そのことに私は驚嘆する。白い雪の部分は絵の具を使わず、もともとの紙の白をそのまま残してあるのだそうだ。

 

 描かれる以前、一体どんな「眼」が、この松を見ていたか。つまるところ、それが西洋絵画の写実主義との截然たる差ではないか。きっと「眼」が違うのだと、漠然とそんなことを考えている。

 

 

 

 

 

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台風が近づきつつあった8日の夕景。淡い水彩画のような桃色の空。

幻想的な、その柔らかい空気感が良かった。

 

 

 

 

言葉はいらない・・・

 

 

 

 

 

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 ネタ切れ・・・

 どうもいけない。何も書く気がしない。夏の猛暑の記憶がまだ鮮明に残るうちに、どうやら秋になったらしい。私の体はまだ猛暑を覚えているらしく、背中あたりの火照りがなかなか消えず、朝夕の涼しさについていけない。こんな感覚は初めてのことで、なんだか妙な感じだ。

 

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 さて。

 9月に入ってすぐのころ、まだまだ残暑が続く中、気がつくと近所の田んぼの畔に彼岸花が咲いていた。下は何年か前に撮った写真だが、今年も同じところに同じように咲いている。秋の気配というと、この彼岸花とか弱い虫の声くらいかと思っていたら、日が過ぎていくうちにキバナコスモスやキクイモなんかが咲き始めている。そういや、スーパーではみかんが出回り始めた。つい数日前までスイカを売っていた。桃も売っていた。桃なんて以前は7月には終わっていた。そのうち真夏にみかんを食ったりするようになるのだろう。果物も野菜も季節感が消え失せて久しい。

 

 

 

 彼岸花は秋、9月の彼岸のころ、土中の花芽が温度の変化だけを感じて季節を知って葉よりも先に地上に向かって花茎を出し、葉が伸びてくる前に真っ赤な6弁の花を放射状に5~7個つけて咲くとされている。つまり、上の写真の姿は一つの花ではなく放射状に咲いた5~7個の花の全体なのである。そして、その全ての花が輪になったように外向きに並んで咲いているのも下の写真で確認できる。

 

 

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 彼岸花を見るたびに思うのは自然の持つ造形力というのだろうか。いくつかの花を輪のように配置して同時に咲かせ、全体として一つの花のように見せる、華奢で繊細なこの美しさをどう受け止めればいいのだろう。

 彼岸花は種子によって繁殖するわけではないらしい。球根によって増えてゆくのだろう。だからきれいに見せて昆虫など呼ぶ必要もない。そしてその球根には毒がある。田畑の畦道に多く見られるのはモグラやネズミなど畑を荒らす害獣を、その毒によって防ぐためという説もある。

 彼岸花は別名曼殊沙華ともいう。お釈迦様が法華経を説かれた折、これを祝して天から降ってきた花のひとつと言われていて、もともとは縁起のいい花だったはずなのだが、日本では葬式花、墓花、死人花(しびとばな)といった縁起でもない別名が多数あるらしい。だから彼岸花を仏壇や墓地に活けるのはタブー。それでも各地に見える彼岸花の群生を花見に行く人は多い。

さて、いかなる心境であるのか?

 

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 ここからは余談になるのだが、彼岸花は土中の花芽が気温の変化を感じ取って葉よりも先に地上に向かって伸びてくるとされているのだが、「感じ取る」とはどういうことだろう。春、気温が上がれば桜がそれを感じ取って花を咲かせる。地上に出てる部分では日照時間などの変化も感じ取っているとされている。植物にも神経のようなものがあるのだろうか?

 そういえば、植物の枝や葉を切り落とすと電流を発生して周辺の枝や葉にそれを知らせるという事も聞いたことがある。最近の議論では無農薬野菜が健康にいいとは必ずしも言えない。農薬を使わずに育てると害虫が寄ってきたときに野菜は自身を守るために有毒物質を作ることがある、そんな話も聞いた。

 

 この疑問をGeminiにぶつけてみたら、こうした植物の外界に対する反応が、実際にあるという事がわかってきているらしい。以下、そのGeminiの回答。

 

電気信号による情報伝達
 最近の研究では、植物の葉や枝が傷つけられると、その傷口からグルタミン酸というアミノ酸が放出され、それが隣接する細胞に広がっていくことが明らかになりました。このグルタミン酸は、細胞間の情報伝達を担う「グルタミン酸受容体様タンパク質」を活性化させ、カルシウムイオン (Ca2+ ) の濃度を変化させます。この Ca2+ 濃度の変化が電気的なシグナル(活動電位)を発生させ、他の葉や枝へと伝わっていきます。
 この電気信号は、葉の気孔を閉じるなどの防御反応を引き起こしたり、防御に関わる遺伝子の発現を促したりすることが分かっています。つまり、一部が傷つけられると、植物全体が「危険が迫っている」と認識し、防御態勢を整えるのです。これは、動物の神経伝達に似た非常に素早い応答であり、植物が単なる静的な存在ではなく、複雑なコミュニケーション能力を持つことを示唆しています。

 

化学物質による情報伝達
 また、植物は電気信号だけでなく、ホルモンや揮発性物質(匂い)といった化学物質も情報伝達に利用します。例えば、昆虫に食べられた植物は、特有の匂い物質を空気中に放出することがあります。この匂いを感知した周囲の植物は、事前に防御物質を生成して、食害に備えることができます。このような植物間の「会話」は、一種のコミュニケーションであり、広範囲にわたる情報共有を可能にしています。

 

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 だいぶ前に、植物が人間を殺し始めるという映画を見た。ホラー映画で知られたM・ナイト・シャマラン監督の「ハプニング」。植物が風に乗せて有毒物質を流して人々を自殺に追い込んでゆく。本当に怖い映画だったが、いずれそんなこともありそうな気がしてきた。

 

植物は単なる静的な存在ではなく、複雑なコミュニケーション能力を持つ

 

 

 

 

 

 

 

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