コラムというと、ドラマチックであることが条件であるような、そんな強迫観念にとらわれていた。書き方のテクニックによって文章を演出し、さも面白い話のように仕立てることは、読み応えはあったとしてもそれは中身があったとは言えない。編集長に厳しく言われた。「ドラマチックに書くのではなく、事実を積み重ねて書け」

 事実や見聞した事柄は非常に重い。それらを積み重ねることで本来は趣旨を感じさせなければならない。描写や取材や弱いから、小手先のテクニックで説明チックに文章をこねくり回して体裁を整えようとしたことを反省したい。
 記者の仕事とは、社会生活に必要な情報や政治・経済の流れ、世界の動きなどを正確に読者に伝えることだ。それでは、記者の仕事は記事を書くことだけであろうか。

 電子書籍や電子メール、インターネット回線と使った生放送や動画配信…。情報通信の方法が多様化した現在、報道の手法も多様化している。読者のニュースへのアプローチの方法を考えると、若者を中心とした世代が最新技術を搭載した電子機器に慣れていく一方で、新聞や本などの紙媒体や7月に地上デジタル放送がスタートしたテレビなど従来の既存のものを利用している読者も多い。

 戦後を考えてみると、インターネット元年と呼ばれた1995年ごろまで、情報発信の方 法にほとんど変化は無かった。記者は情報発信の方法について思慮する必要ななかったのである。しかし現在、記者を取り巻く状況は大きく変わり、記事を書くとともにその発信の手法まで考えていくことが必要になっている。

 しかし、それらのことは旧来、業界では一般的には考えられてこなかった。空気のように、新聞を通じて報じることが当たり前のように定石化していたからだと思う。しかし、報道の在り方を考える上では情報発信の手法は常に考えられるべき事項だ。それらがおろそかになっていたからこそ、インターネット到来による劇的な状況変化に対応できなかったのだと思う。

 話をふくらませると、記者が考えるべきことは情報発信の手法にとどまらない。でも、これは当たり前のことだ。「記者は記事を書ければよい」なんてのは戯言で、それは「木を見て森を見ず」だ。自分たちが書いた情報が手元を離れたあとに、どのように伝わっていくのか…、それらを考えることは先の話で当然のことであるとしたが、例えば業界の潮流や人材育成など、まさに多様なことへの能動的アプローチや改革が、結果としてよりよい記事を発信することにつながると思う。

 細かい仕事が非常に重要になってくる。

 社内における電話システムの整備や新人が参加できる勉強会の発足、データベースの集約業務、インターネットを利用した記事の発信方法の開発など、決して一般的には記者の仕事だと思えないことも、私は記者の仕事だと思っている。大手メディアでは、厳格に仕事内容が手分けされていると思うので、記者が踏み込めない分野だ。そのことには、執筆に集中できるメリットと、視野が狭まりがちになるデメリットがあることを、常に意識することが重要だ。

 将棋に大局観という言葉がある。盤面の一部を見ずに、全体を見渡して戦略を考えるということだ。大局観が備わった記者がこれからの時代、必要になってくるはずだ。
 今の日本の政治がこれほどまでに停滞している原因は何か。その一つは国民の姿勢にある。国会議員は国民の代表である。国民は、選挙で代表者を選ぶだけではなく、選んだことに対して責任を感じなければならない。今、日本の国民の大多数は、政治家を異質な存在として認識している。国会議員を選んだのは有権者だ。自らの責任がある。

 いまや、国民の3人に1人は選挙へ行かない。

 なぜそういった構図になってしまったのか。そこにはメディアの責任がある。よりよい社会を作ることがメディアの仕事だ。それを柱に、権力の監視や独自調査、地域ニュースの報道などの役割がある。国政をもっと良くすることもその一つだ。そのためには、政治家たちへの批判は無論、政治に無関心な国民への指摘が、両輪になっていなければならない。

 なぜ新聞は国民批判をしないのか。それには二つの理由がある。一つ目は「メディアは一義的に弱者の見方である。国民は堕落した政治の『被害者』だと認識している」、二つ目は「読者≒有権者であるため、国民批判は読者批判になる」ということだ。

 一つ目の理由は、間違っている。国民は被害者ではなく、加害者だ。代表者の行為、方向性を批判するのは構わない。ただそれは、有権者の多数決の総意として選ばれた代表者がしたことである。有権者とは気っても切れない関係だ。

 二つ目の理由が正しいと既存メディアが主張するのであれば、結果として自己批判をすることができない傲慢な有権者を生み出してしまったことになる。権力がある者を批判するのは実は楽なことだ。それメディアの存在理由の一つと広く認識されているからだ。しかし、市井の人々が持つ問題点を明確にし、世論を成熟させることははるかに難しい。

 当然、読者批判はメディア批判として跳ね返ってくる。しかし、そういう過程を歩みながら、メディアは国民から信頼を得ていくべきだ。今では、権力者の批判に終始し、読者をおだてて新聞を買ってもらっていると考えても大げさではない。

 政治を国民のものにするために、メディアはもっと政治と有権者が結びついていることを強調しなければならない。