2. シャーマンの窮状 運命づけられた差異 pp. 112-114 | シャーマンくずれ

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Morten Axel Petersen著 Not Quite Shamans: Spirit Worlds and Political Lives in Northern Mongolia(Cornell University Press,2011)を読み解くためのブログ

 ウラン-ウルのオカルト知の専門家すべてがゴンボドルジや他の潜在的なシャーマンのようにスティグマ化されているわけではないことを強調しておくのは重要である。実際のところ、多くの者は共同体のなかで非常に人気がある。人々はしばしば彼らを、その特別なオカルト技術に言及することで語る(「どのバイラ?ああ、占い師のバイラか」)一方で、ゴンボドルジの場合のように、精霊との特別なつながりが彼らのおこなうことすべてに行き渡っているのではない。たとえば、知人たちとロシアのカードゲームdurakをプレイするとき、彼らはtanilとしてそれをするのであり、オカルト能力を持つ個人としてするのではなかった。後者の性質が顕わになるのは、顧客としての一般の人々に対して専門家としてふるまう状況に限られている。

 そうした「良い奴(sain nöhör)」の、通常の精神状態と通常ではない精神状態のあいだには明確な区分が認められており、まさにその理由から近所の者は彼を常に警戒するのではない。ゴンボドルジや他の潜在的シャーマンの問題は、彼らの精神状態が通常であることと通常でないことのあいだには薄い壁しかない――もしくはまったく何もない――ということだ。なによりもこれが彼らを、周囲にとって非常に危険なものとしている。ゴンボドルジがおそらく私の下宿先の人々にしたようにあなたを呪うかもしれない。あるいはバガ・ビルウの恐るべき日に居合わせた者すべてに対しておこなったと言われているように、あなたを叩きのめすかもしれない。あるいは、ゴンボドルジがagsanの怒りに任せてゲルを燃やしたときのように、あるいは彼がいつも図抜けて猥雑でいたずらじみた「うそ」にふけるように、なにか正真正銘の気狂い沙汰を起こすかもしれない。

 そうではあるものの、一部の人々(偶然にも彼らは全員が青年男性であった)は、「ゴンボドルジはたぶんいつかシャーマンになるだろう」とこっそり打ち明けてくれた。だがまだ彼は完全なシャーマンではない。彼は名のある鍛冶屋であり、名のある狩猟者であるが、彼はまたそれ以上――もしくはおそらくそれ以下――の何物か、すなわちいかなる安定した単一の形態も取ることのできない本質的に不安定で無頭的な存在である。ある意味で彼は、曽祖父が老シャーマンに弟子入りするまでそこに囚われていると感じていた「極めて難しい段階」に、永遠に閉じ込められていた。ゴンボドルジは、なろうと望み続けた本物のシャーマンになることができず、それへと生成変化する過程で永遠に足止めされていた。これが彼を根本的に不完全で、両義的で、危険な個人として際立たせていた。私的な理由と政治的な理由の絡み合いのためにその人物は、ただ半分だけのシャーマンではなく完全なシャーマンになるのだとすれば制御すべき自らのudhaについて、それを制御する術を一度も学ばなかったのである。

 

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 本章の目的は、ある一人のダルハドの個人とその波乱に富んだ人生に私の民族誌的な語りの焦点を合わせることによって、1990年代後半の北モンゴルにおけるシャーマンの行為主体性の性質について何かしら端的に表すようなものを述べることであった。とはいえ私が提示したのは、ゴンボドルジの「ライフストーリー」ではない。これは自伝的人類学の尊重された伝統における主要インフォーマントのライフストーリーの完結した事例もしくは説得力ある事例ではおそらくなく、これこそ私の本当の目的であった。

 われわれは本章を、昔ながらの民族誌的伝記、つまりある一つの情動の歴史や情動の布置の歴史を記述する試みとは極めて異なった、そしておそらくより実験的な何かとして考えてはどうだろうかと私は提案するのである。ゴンボドルジとその祖先の身体に、嵐の目を取り巻く雲のように引き寄せられた人間と非人間の力のシャーマン的なアッサンブラージュ。私が提起するところでは、シャーマン的と呼ばれうるエージェンシーを規定し、またここまで論じてきたようにシシュギットの社会生活において差異それ自体の継続的な繰り返しを可能とするものとは、こうした情動のアッサンブラージュであり、このアッサンブラージュが周囲と絶えず擦れ合うことによる摩擦が引き起こした意図的かつ非意図的な影響の連鎖である。

 この章では(民族誌的な語りの中心が常に、単線的でしたがって私見では往々にして新鮮味のない伝記の時間性を通して時系列的に述べられた分割不能な(individual)人間存在であるべきかのように)特定個人の人生の物語を語るというよりも、あるエージェンシーの一群れの軌跡を跡付けることを目指したのであった。そのことは1990年代後半のウラン-ウルにおけるそうしたエージェンシーの多面的な表れを通して目指されたのであり、そのときは移行があらゆるところにいきわたった避けがたい現実であり、シャーマンに最もなりつつあるその人物は潜在的なシャーマンであった。このシャーマンの情動のアッサンブラージュが、問題を抱えたあるいは問題を引き起こす特定の個人の身体と精神において発現する傾向にあったという事実から、彼らがそれを生み出したとみなすような主意主義的な誤謬を支持することを導くべきではない。この章で示したように、これは彼らの環境にいる個人や他の者たちが事態を理解するやり方では確かになかった。そうではなくこれまで見てきたように、ゴンボドルジや他の半シャーマンたちは、いわば差異へと運命づけられていた。異なりすぎていて、ほとんどどのような自己でもないということが、彼らの窮状なのであった。

 

◎第2章の末尾となる一節である。ウラン-ウルのオカルト知の専門家の中で半シャーマンが特異であるのは、その通常時と能力を発揮している状態の間に境界がなく、それを制御する術を学んでいなかったことだと指摘されている。そのうえで本章全体は、単なる(『トゥハーミ』的な)一風変わった分割不能な個人のライフヒストリーではなく、世代を超えて同様に繰り返される差異、同時に「個人」のなかにも現れる差異を、内外の情動のアッサンブラージュを通して捉えようとしたのだと解説する。そしてシャーマンの窮状とは、どのような自己も保ちえないことだと筆者は結論付ける。