2. シャーマンの窮状 失われた世代 pp. 108-112 | シャーマンくずれ

シャーマンくずれ

Morten Axel Petersen著 Not Quite Shamans: Spirit Worlds and Political Lives in Northern Mongolia(Cornell University Press,2011)を読み解くためのブログ

 ゴンボドルジとそのシャーマンの窮状についての説明を締めくくるにあたって、私がゴンボドルジの祖先の物語を聞いたあとで下宿先へと戻ったとき、何が起きたかを思い起こすのは意味のあることだろう。私がウラン-ウルの共同体に滞在し始めた、まさに最初の週のことである。「それで、彼は一体何を言ったんだい?」と彼らは勢いこんで尋ねた。私がためらっていると、彼らは自ら答えを持ち出した。「おそらくお前にゲルの火事のことを喋ったのだろう。ああ、彼は確かにあの夜ひどく酔っぱらっていた。だが、ongodchötgörについて言うことに関してはすべて……我々はそれほど信じていない」。

 疑っているのは下宿先の一家だけではなかった。数か月後にゴンボドルジともめた後で、彼らは私に「かつてゴンボドルジの友人であった」ことを強調しながら一人の狩猟者を紹介してくれた。酩酊していたその男は、最終的に私には「真実(ümen)」が告げられるだろうと大声で言った。ゴンボドルジは彼の親友にして狩りのパートナーであったと彼は言った。二人はいつも一緒に酒を飲んではけんかをし、またゴンボドルジは確かに多才な男であった。「だが」と彼は続ける。「その夜は驚いた。ゴンボドルジが猛烈に酔っぱらって(agsan tav’san)みんなを放り出したとき、俺はそこで他の狩猟者たちと飲んでいた。次に奴は妻と子供を脅したので、彼らもまた逃げ出さねばならなかった。まもなくすべては火の中にあった。そして翌朝、彼はongonが自制力を奪い、自分をagsanにしたのだと語った」。

 私には徐々にわかってきたのだが、その疑いはウラン-ウルの多くの人々が共有していた。彼のトリックスター的な性格のせいで、先祖のシャーマンの精霊が本当にその夜ゴンボドルジにとりついたのか否かを知ることは純粋に不可能であった。とはいえ、人々が疑念を抱くところの対象は興味深い。彼らはシャーマンの精霊の実在は疑っていなかった(あるいは少なくとも、彼らはそうした疑いを表明しなかった)。彼らが疑っていたのは、この事例におけるゴンボドルジの行動が、彼の制御を越えたエージェンシーを原因として起きたのかどうかであった。私の下宿先一家の妻が文句を言うように、ゴンボドルジの問題は、彼がまさにいつでも「うそをつく」がゆえに、どこまで彼を信じるべきか知ることができないということだ。

 ゴンボドルジは決して、ウラン-ウル唯一の潜在的なシャーマンというわけではなかった。実際のところ前章で見た通り、肉体的(あるいは精神的)な害を引き起こす能力は、個人の内部に収まった精神と同じ程度に、外的な影響と力(魂、精霊、その他)を含みこむ入り組んだ感情状態にあると理解されていた。このことは間違いなく、そのような状態が概して説明しがたい理由であり、また同じ理由によって排除しにくいのでもある――難し過ぎて、熟練した専門家によるオカルト的な介入によってのみ状況を改善できるのである。家族が極めて「難しい」とみなしたためにツァガアン・ヌウルのシャーマンのもとに連れてゆかれた、若者やそれほど若くない男性の事例(だが決して女性はいない)にも私は何度かでくわした。彼らは、ダルハドの文脈ではいつでもシャーマンのudhaを測るための重要な尺度である(Diószegi 1963: 63-64)口琴(hel huur)を与えられるのであった。だが私にはほとんどよくわからない理由によって、これらの潜在的シャーマンは精霊の呼びかけには決して応答しなかったのだ。

 とはいえ明らかなことは、シャーマンとしての経歴不足の理由が何であれ、20代や30代、ときに40代の問題を抱えたこれらの男たちは、ハイパーシャーマン的な状態であるところの永遠の変容に――あるいは彼らの国全体の場合と同じような、すなわち移行に――残りの生を運命づけられているということだ。私が言われたように、「彼らはシャーマンではないが、ある種のシャーマン(sort of shamans)ではある(Böö ch baihgüi. Harin böö uhaany yum baigaa.)」。

 こうしたすべてが示唆しているのは、1990年代後半の北モンゴルは、シャーマンへと生成変化する過程のなかに永遠に取り残された若い男性の同一世代を抱えていたということだ。マルジョリー・バルザーは、シベリアの先住民集団について同様の観察をおこなっている。「ソビエトがシャーマンを抑圧したことによる数多くの悲劇のうちの一つは、シャーマンたちが秘密の知識と実践を伝承すべき適当な若者を発見することが、極めて困難になったということだ」(2006: 90)。社会主義後の最初の10年が終わりに近づくにつれ、この社会学的タイムラグ、あるいは「社会的モラトリアム」(Vigh 2006)を是正することは徐々に難しくなっていくように見えた。なぜなら、このときまでに問題を抱えたそうした男たちは、次世代のシャーマンを育成し教育する、知恵に溢れた年長のシャーマンとなっている「べきであった」のである。だがそれに対して、いまだに彼ら自身が、自らを完全なシャーマンとするためにシャーマンの師匠が必要な単なる潜在的シャーマンの過渡的状態のなかで永遠に漂い続けていたのだ。ポスト植民地期のアフリカで、成人への移行を永遠に停止された数百万の若者たちや、1990年代後半のウランバートルにおける街のいかさま師や流浪者と同様に(Pedersen and Højer 2008)、北モンゴルの半シャーマンは、その主観性が大規模な政治的変容による多くの予期せぬ犠牲の一つであった失われた世代のようである。アレクセイ・ユルチャックの「最後のソビエト世代」(2006)のオカルト的モンゴル版として、こうした半シャーマンは、二つの社会的秩序のあいだにとらわれた典型的なポスト社会主義者の一団を、ほかの誰にもまして形成している。

 何が誤っていたのかを説明する十分に満足のできるような回答を見つけることは、私にとっても他の学者にとっても難しいことは明らかであった。過去のすべての「本物のシャーマン」に何が起こったのか? 彼らはどこに行ってしまったのか? シシュギッドにおける仏教の実質的な廃絶と比較して、ダルハドのシャマニズムは社会主義体制下で幾分かましな運命をたどったことは確かだ。いうまでもなく、そうした年月のあいだに活動していた他のオカルト知の専門家と同じように、シャーマンたちは当局からの政治的な影響を避けるため、公的な文脈の外部で実践することを余儀なくされた。政治的影響には、公然的な侮辱や社会的権利の喪失(その子弟の高校や大学へのアクセスといった)から、より極端な場合には投獄や、1930年代には処刑すらありえた。だが私は幾度となく確信したのだが、シャーマンの儀礼はそうした時代を通して「こっそり」実行されていた。まさにシャーマンが、シャーマンの精霊に憑依される完全な儀礼を必要としない預言や他の目的のために相談を受けていたようにである。

 ダルハドの失われたシャーマンのパラドックスは、20世紀の半ばにシシュギッドに滞在したモンゴル人民族誌家S・バダムハタンとハンガリー人民族誌家ラズロ・ディオゼギの両者が、「かつてのシャーマン」として言及し、少なくともその一部は疑いなく当時も活動していた[3]数多く(60人以上)の人々と出会った事実によっても浮き彫りにされる。だがおよそ一世代ののち、1980年代の半ばまでには、その時点では最も深刻な政治的抑圧が終わっていたという事実にもかかわらず、地域にはほんの数人のシャーマンだけしか残っていなかったたようである。何が起きたのだろうか。レンチンルンベ郡でフィールドワークをおこなったスイス人人類学者のジュディス・ハンガートナーは、次のように書いている。

 

 社会主義時代のあいだに先祖たちがおこなっていた実践について尋ねたとき、現在のダルハド・シャーマンたちは通常、彼らの両親は迫害のためにその実践をおこなっていなかったと答える。両親は子供にさえその実践を隠しており、父親/母親がシャーマンであったことを全く知らなかったと言うインフォーマントもいた。両親たちはシャーマンの儀礼を停止したが、原因不明の病や家畜の喪失が起きた場合には再開し、再びそれを放棄し、そして精霊の求めによって再開したと会話のあいだに明かすシャーマンもいた。……シャーマンの子孫と年長の人々の記憶を考慮すると、土地の役人がシャーマンにその実践を私的な領域に限定するよう一定の圧力をかけたものの、その圧力は変動しており、シャーマンに実践を放棄させたり、圧力が弱まった時期に再開させたりしたようである。……またさらに、実践するシャーマンの数は社会主義時代の終わりに向けて減少していったように見える(Hangertner 印刷中)。

 

 社会主義時代のレンチンルンベにおけるシャーマンの状況に関するこれらの観察は、一部の人々がウラン-ウルに関して話してくれたことと一致する(Buyandelger 2008をブリヤートの事例と比較せよ)。とはいえ他の者は、そのころには一切「シャーマンはいない」(あるいはラマはいない)と主張し、このことがときどきインタビューの最中に議論を招くこととなった(「どういう意味だ、すぐ隣に生きたシャーマンがいたというのか?」)。だが、「シャーマンたちに何が起きたのか?」という私の質問に対して最もよくある反応は、あいまいで用心深く、また矛盾を含んだものであった。ある老女にインタビューした際の次のやり取りのようなものである。

 

私:それじゃあ、社会主義時代のあいだここにシャーマンはいなかったんですか?

女性:何もいなかったよ。ラマ、zaarinudgan――彼らはみんな逮捕された。

私:おそらく二人はいたのではないかと。ほかの人がそう言ってましたが……

女性:ああ、数人はその辺にいたんじゃないかな。何人かは[タイガの方を指して]向こうに行って[1990年代前半に]戻ってきた。10年間牢屋にいて戻ってきたものもいたが、彼らはラマだった。私が思うにそれがその二人だ。

私:ある男性は、社会主義のあいだもウラン-ウルのこの辺りには常にシャーマンがいたと言っていました。彼が言うには、一人か二人はシャーマンの儀礼をこっそりやっていたと……

女性:うん、いたね。数人のラマもいた。だけどどの人たちもそれほど良くはなかった。

 

たとえ極めて困難な、制限された、しばしば危険な状況であったとしても、また社会主義の晩期の頃にはほんの数人のシャーマンが残っていただけのようであったとしても、シシュギッドには社会主義時代を通して非公式に実践するシャーマンがいたと結論づけるのが妥当だろう。だが私には決して明らかとならなかった理由により――あるいは、他の研究者にとってもそうであるように見える(おそらくそれを明らかにすることが極めて骨の折れるためであり、またおそらく理由が人々自身にとっても完全には明白ではないためでもある)――ダルハドのシャーマンは1980年代から1990年代初頭に実質的に絶滅した。だが、紛れもなく明らかなことは、このシャーマン不足が1990年代後半の社会生活に重大な予期せぬ帰結をもたらしたということだ。

 

◎シシュギッドでは社会主義時代もシャーマンの儀礼が密かに実践されていた一方、人格や生になんらかの問題を抱えたシャーマン候補者たちは自らを一人前とするシャーマンの師匠を見つけることが難しくなっていった。そうして90年代後半には、シャーマンに生成変化する移行段階に取り残されたゴンボドルジのような半シャーマンたちが多数現れることになり、それは社会主義からの移行段階をさまようモンゴル国家とパラレルであることも指摘される(F.F.)。