シャーマンくずれ

シャーマンくずれ

Morten Axel Petersen著 Not Quite Shamans: Spirit Worlds and Political Lives in Northern Mongolia(Cornell University Press,2011)を読み解くためのブログ

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 ウラン-ウルのオカルト知の専門家すべてがゴンボドルジや他の潜在的なシャーマンのようにスティグマ化されているわけではないことを強調しておくのは重要である。実際のところ、多くの者は共同体のなかで非常に人気がある。人々はしばしば彼らを、その特別なオカルト技術に言及することで語る(「どのバイラ?ああ、占い師のバイラか」)一方で、ゴンボドルジの場合のように、精霊との特別なつながりが彼らのおこなうことすべてに行き渡っているのではない。たとえば、知人たちとロシアのカードゲームdurakをプレイするとき、彼らはtanilとしてそれをするのであり、オカルト能力を持つ個人としてするのではなかった。後者の性質が顕わになるのは、顧客としての一般の人々に対して専門家としてふるまう状況に限られている。

 そうした「良い奴(sain nöhör)」の、通常の精神状態と通常ではない精神状態のあいだには明確な区分が認められており、まさにその理由から近所の者は彼を常に警戒するのではない。ゴンボドルジや他の潜在的シャーマンの問題は、彼らの精神状態が通常であることと通常でないことのあいだには薄い壁しかない――もしくはまったく何もない――ということだ。なによりもこれが彼らを、周囲にとって非常に危険なものとしている。ゴンボドルジがおそらく私の下宿先の人々にしたようにあなたを呪うかもしれない。あるいはバガ・ビルウの恐るべき日に居合わせた者すべてに対しておこなったと言われているように、あなたを叩きのめすかもしれない。あるいは、ゴンボドルジがagsanの怒りに任せてゲルを燃やしたときのように、あるいは彼がいつも図抜けて猥雑でいたずらじみた「うそ」にふけるように、なにか正真正銘の気狂い沙汰を起こすかもしれない。

 そうではあるものの、一部の人々(偶然にも彼らは全員が青年男性であった)は、「ゴンボドルジはたぶんいつかシャーマンになるだろう」とこっそり打ち明けてくれた。だがまだ彼は完全なシャーマンではない。彼は名のある鍛冶屋であり、名のある狩猟者であるが、彼はまたそれ以上――もしくはおそらくそれ以下――の何物か、すなわちいかなる安定した単一の形態も取ることのできない本質的に不安定で無頭的な存在である。ある意味で彼は、曽祖父が老シャーマンに弟子入りするまでそこに囚われていると感じていた「極めて難しい段階」に、永遠に閉じ込められていた。ゴンボドルジは、なろうと望み続けた本物のシャーマンになることができず、それへと生成変化する過程で永遠に足止めされていた。これが彼を根本的に不完全で、両義的で、危険な個人として際立たせていた。私的な理由と政治的な理由の絡み合いのためにその人物は、ただ半分だけのシャーマンではなく完全なシャーマンになるのだとすれば制御すべき自らのudhaについて、それを制御する術を一度も学ばなかったのである。

 

***

 

 本章の目的は、ある一人のダルハドの個人とその波乱に富んだ人生に私の民族誌的な語りの焦点を合わせることによって、1990年代後半の北モンゴルにおけるシャーマンの行為主体性の性質について何かしら端的に表すようなものを述べることであった。とはいえ私が提示したのは、ゴンボドルジの「ライフストーリー」ではない。これは自伝的人類学の尊重された伝統における主要インフォーマントのライフストーリーの完結した事例もしくは説得力ある事例ではおそらくなく、これこそ私の本当の目的であった。

 われわれは本章を、昔ながらの民族誌的伝記、つまりある一つの情動の歴史や情動の布置の歴史を記述する試みとは極めて異なった、そしておそらくより実験的な何かとして考えてはどうだろうかと私は提案するのである。ゴンボドルジとその祖先の身体に、嵐の目を取り巻く雲のように引き寄せられた人間と非人間の力のシャーマン的なアッサンブラージュ。私が提起するところでは、シャーマン的と呼ばれうるエージェンシーを規定し、またここまで論じてきたようにシシュギットの社会生活において差異それ自体の継続的な繰り返しを可能とするものとは、こうした情動のアッサンブラージュであり、このアッサンブラージュが周囲と絶えず擦れ合うことによる摩擦が引き起こした意図的かつ非意図的な影響の連鎖である。

 この章では(民族誌的な語りの中心が常に、単線的でしたがって私見では往々にして新鮮味のない伝記の時間性を通して時系列的に述べられた分割不能な(individual)人間存在であるべきかのように)特定個人の人生の物語を語るというよりも、あるエージェンシーの一群れの軌跡を跡付けることを目指したのであった。そのことは1990年代後半のウラン-ウルにおけるそうしたエージェンシーの多面的な表れを通して目指されたのであり、そのときは移行があらゆるところにいきわたった避けがたい現実であり、シャーマンに最もなりつつあるその人物は潜在的なシャーマンであった。このシャーマンの情動のアッサンブラージュが、問題を抱えたあるいは問題を引き起こす特定の個人の身体と精神において発現する傾向にあったという事実から、彼らがそれを生み出したとみなすような主意主義的な誤謬を支持することを導くべきではない。この章で示したように、これは彼らの環境にいる個人や他の者たちが事態を理解するやり方では確かになかった。そうではなくこれまで見てきたように、ゴンボドルジや他の半シャーマンたちは、いわば差異へと運命づけられていた。異なりすぎていて、ほとんどどのような自己でもないということが、彼らの窮状なのであった。

 

◎第2章の末尾となる一節である。ウラン-ウルのオカルト知の専門家の中で半シャーマンが特異であるのは、その通常時と能力を発揮している状態の間に境界がなく、それを制御する術を学んでいなかったことだと指摘されている。そのうえで本章全体は、単なる(『トゥハーミ』的な)一風変わった分割不能な個人のライフヒストリーではなく、世代を超えて同様に繰り返される差異、同時に「個人」のなかにも現れる差異を、内外の情動のアッサンブラージュを通して捉えようとしたのだと解説する。そしてシャーマンの窮状とは、どのような自己も保ちえないことだと筆者は結論付ける。

 ゴンボドルジとそのシャーマンの窮状についての説明を締めくくるにあたって、私がゴンボドルジの祖先の物語を聞いたあとで下宿先へと戻ったとき、何が起きたかを思い起こすのは意味のあることだろう。私がウラン-ウルの共同体に滞在し始めた、まさに最初の週のことである。「それで、彼は一体何を言ったんだい?」と彼らは勢いこんで尋ねた。私がためらっていると、彼らは自ら答えを持ち出した。「おそらくお前にゲルの火事のことを喋ったのだろう。ああ、彼は確かにあの夜ひどく酔っぱらっていた。だが、ongodchötgörについて言うことに関してはすべて……我々はそれほど信じていない」。

 疑っているのは下宿先の一家だけではなかった。数か月後にゴンボドルジともめた後で、彼らは私に「かつてゴンボドルジの友人であった」ことを強調しながら一人の狩猟者を紹介してくれた。酩酊していたその男は、最終的に私には「真実(ümen)」が告げられるだろうと大声で言った。ゴンボドルジは彼の親友にして狩りのパートナーであったと彼は言った。二人はいつも一緒に酒を飲んではけんかをし、またゴンボドルジは確かに多才な男であった。「だが」と彼は続ける。「その夜は驚いた。ゴンボドルジが猛烈に酔っぱらって(agsan tav’san)みんなを放り出したとき、俺はそこで他の狩猟者たちと飲んでいた。次に奴は妻と子供を脅したので、彼らもまた逃げ出さねばならなかった。まもなくすべては火の中にあった。そして翌朝、彼はongonが自制力を奪い、自分をagsanにしたのだと語った」。

 私には徐々にわかってきたのだが、その疑いはウラン-ウルの多くの人々が共有していた。彼のトリックスター的な性格のせいで、先祖のシャーマンの精霊が本当にその夜ゴンボドルジにとりついたのか否かを知ることは純粋に不可能であった。とはいえ、人々が疑念を抱くところの対象は興味深い。彼らはシャーマンの精霊の実在は疑っていなかった(あるいは少なくとも、彼らはそうした疑いを表明しなかった)。彼らが疑っていたのは、この事例におけるゴンボドルジの行動が、彼の制御を越えたエージェンシーを原因として起きたのかどうかであった。私の下宿先一家の妻が文句を言うように、ゴンボドルジの問題は、彼がまさにいつでも「うそをつく」がゆえに、どこまで彼を信じるべきか知ることができないということだ。

 ゴンボドルジは決して、ウラン-ウル唯一の潜在的なシャーマンというわけではなかった。実際のところ前章で見た通り、肉体的(あるいは精神的)な害を引き起こす能力は、個人の内部に収まった精神と同じ程度に、外的な影響と力(魂、精霊、その他)を含みこむ入り組んだ感情状態にあると理解されていた。このことは間違いなく、そのような状態が概して説明しがたい理由であり、また同じ理由によって排除しにくいのでもある――難し過ぎて、熟練した専門家によるオカルト的な介入によってのみ状況を改善できるのである。家族が極めて「難しい」とみなしたためにツァガアン・ヌウルのシャーマンのもとに連れてゆかれた、若者やそれほど若くない男性の事例(だが決して女性はいない)にも私は何度かでくわした。彼らは、ダルハドの文脈ではいつでもシャーマンのudhaを測るための重要な尺度である(Diószegi 1963: 63-64)口琴(hel huur)を与えられるのであった。だが私にはほとんどよくわからない理由によって、これらの潜在的シャーマンは精霊の呼びかけには決して応答しなかったのだ。

 とはいえ明らかなことは、シャーマンとしての経歴不足の理由が何であれ、20代や30代、ときに40代の問題を抱えたこれらの男たちは、ハイパーシャーマン的な状態であるところの永遠の変容に――あるいは彼らの国全体の場合と同じような、すなわち移行に――残りの生を運命づけられているということだ。私が言われたように、「彼らはシャーマンではないが、ある種のシャーマン(sort of shamans)ではある(Böö ch baihgüi. Harin böö uhaany yum baigaa.)」。

 こうしたすべてが示唆しているのは、1990年代後半の北モンゴルは、シャーマンへと生成変化する過程のなかに永遠に取り残された若い男性の同一世代を抱えていたということだ。マルジョリー・バルザーは、シベリアの先住民集団について同様の観察をおこなっている。「ソビエトがシャーマンを抑圧したことによる数多くの悲劇のうちの一つは、シャーマンたちが秘密の知識と実践を伝承すべき適当な若者を発見することが、極めて困難になったということだ」(2006: 90)。社会主義後の最初の10年が終わりに近づくにつれ、この社会学的タイムラグ、あるいは「社会的モラトリアム」(Vigh 2006)を是正することは徐々に難しくなっていくように見えた。なぜなら、このときまでに問題を抱えたそうした男たちは、次世代のシャーマンを育成し教育する、知恵に溢れた年長のシャーマンとなっている「べきであった」のである。だがそれに対して、いまだに彼ら自身が、自らを完全なシャーマンとするためにシャーマンの師匠が必要な単なる潜在的シャーマンの過渡的状態のなかで永遠に漂い続けていたのだ。ポスト植民地期のアフリカで、成人への移行を永遠に停止された数百万の若者たちや、1990年代後半のウランバートルにおける街のいかさま師や流浪者と同様に(Pedersen and Højer 2008)、北モンゴルの半シャーマンは、その主観性が大規模な政治的変容による多くの予期せぬ犠牲の一つであった失われた世代のようである。アレクセイ・ユルチャックの「最後のソビエト世代」(2006)のオカルト的モンゴル版として、こうした半シャーマンは、二つの社会的秩序のあいだにとらわれた典型的なポスト社会主義者の一団を、ほかの誰にもまして形成している。

 何が誤っていたのかを説明する十分に満足のできるような回答を見つけることは、私にとっても他の学者にとっても難しいことは明らかであった。過去のすべての「本物のシャーマン」に何が起こったのか? 彼らはどこに行ってしまったのか? シシュギッドにおける仏教の実質的な廃絶と比較して、ダルハドのシャマニズムは社会主義体制下で幾分かましな運命をたどったことは確かだ。いうまでもなく、そうした年月のあいだに活動していた他のオカルト知の専門家と同じように、シャーマンたちは当局からの政治的な影響を避けるため、公的な文脈の外部で実践することを余儀なくされた。政治的影響には、公然的な侮辱や社会的権利の喪失(その子弟の高校や大学へのアクセスといった)から、より極端な場合には投獄や、1930年代には処刑すらありえた。だが私は幾度となく確信したのだが、シャーマンの儀礼はそうした時代を通して「こっそり」実行されていた。まさにシャーマンが、シャーマンの精霊に憑依される完全な儀礼を必要としない預言や他の目的のために相談を受けていたようにである。

 ダルハドの失われたシャーマンのパラドックスは、20世紀の半ばにシシュギッドに滞在したモンゴル人民族誌家S・バダムハタンとハンガリー人民族誌家ラズロ・ディオゼギの両者が、「かつてのシャーマン」として言及し、少なくともその一部は疑いなく当時も活動していた[3]数多く(60人以上)の人々と出会った事実によっても浮き彫りにされる。だがおよそ一世代ののち、1980年代の半ばまでには、その時点では最も深刻な政治的抑圧が終わっていたという事実にもかかわらず、地域にはほんの数人のシャーマンだけしか残っていなかったたようである。何が起きたのだろうか。レンチンルンベ郡でフィールドワークをおこなったスイス人人類学者のジュディス・ハンガートナーは、次のように書いている。

 

 社会主義時代のあいだに先祖たちがおこなっていた実践について尋ねたとき、現在のダルハド・シャーマンたちは通常、彼らの両親は迫害のためにその実践をおこなっていなかったと答える。両親は子供にさえその実践を隠しており、父親/母親がシャーマンであったことを全く知らなかったと言うインフォーマントもいた。両親たちはシャーマンの儀礼を停止したが、原因不明の病や家畜の喪失が起きた場合には再開し、再びそれを放棄し、そして精霊の求めによって再開したと会話のあいだに明かすシャーマンもいた。……シャーマンの子孫と年長の人々の記憶を考慮すると、土地の役人がシャーマンにその実践を私的な領域に限定するよう一定の圧力をかけたものの、その圧力は変動しており、シャーマンに実践を放棄させたり、圧力が弱まった時期に再開させたりしたようである。……またさらに、実践するシャーマンの数は社会主義時代の終わりに向けて減少していったように見える(Hangertner 印刷中)。

 

 社会主義時代のレンチンルンベにおけるシャーマンの状況に関するこれらの観察は、一部の人々がウラン-ウルに関して話してくれたことと一致する(Buyandelger 2008をブリヤートの事例と比較せよ)。とはいえ他の者は、そのころには一切「シャーマンはいない」(あるいはラマはいない)と主張し、このことがときどきインタビューの最中に議論を招くこととなった(「どういう意味だ、すぐ隣に生きたシャーマンがいたというのか?」)。だが、「シャーマンたちに何が起きたのか?」という私の質問に対して最もよくある反応は、あいまいで用心深く、また矛盾を含んだものであった。ある老女にインタビューした際の次のやり取りのようなものである。

 

私:それじゃあ、社会主義時代のあいだここにシャーマンはいなかったんですか?

女性:何もいなかったよ。ラマ、zaarinudgan――彼らはみんな逮捕された。

私:おそらく二人はいたのではないかと。ほかの人がそう言ってましたが……

女性:ああ、数人はその辺にいたんじゃないかな。何人かは[タイガの方を指して]向こうに行って[1990年代前半に]戻ってきた。10年間牢屋にいて戻ってきたものもいたが、彼らはラマだった。私が思うにそれがその二人だ。

私:ある男性は、社会主義のあいだもウラン-ウルのこの辺りには常にシャーマンがいたと言っていました。彼が言うには、一人か二人はシャーマンの儀礼をこっそりやっていたと……

女性:うん、いたね。数人のラマもいた。だけどどの人たちもそれほど良くはなかった。

 

たとえ極めて困難な、制限された、しばしば危険な状況であったとしても、また社会主義の晩期の頃にはほんの数人のシャーマンが残っていただけのようであったとしても、シシュギッドには社会主義時代を通して非公式に実践するシャーマンがいたと結論づけるのが妥当だろう。だが私には決して明らかとならなかった理由により――あるいは、他の研究者にとってもそうであるように見える(おそらくそれを明らかにすることが極めて骨の折れるためであり、またおそらく理由が人々自身にとっても完全には明白ではないためでもある)――ダルハドのシャーマンは1980年代から1990年代初頭に実質的に絶滅した。だが、紛れもなく明らかなことは、このシャーマン不足が1990年代後半の社会生活に重大な予期せぬ帰結をもたらしたということだ。

 

◎シシュギッドでは社会主義時代もシャーマンの儀礼が密かに実践されていた一方、人格や生になんらかの問題を抱えたシャーマン候補者たちは自らを一人前とするシャーマンの師匠を見つけることが難しくなっていった。そうして90年代後半には、シャーマンに生成変化する移行段階に取り残されたゴンボドルジのような半シャーマンたちが多数現れることになり、それは社会主義からの移行段階をさまようモンゴル国家とパラレルであることも指摘される(F.F.)。

 もしウラン・ウルのオカルト知の専門家が政治的な単一性を形成することによって他の諸個人から突出するのであれば、私の下宿先の主人といった別な種類の卓越した個人とはどのように比較されたのだろうか。この問いに取り組むにあたっては、社会主義後のモンゴル地方部に現れた、公式あるいは非公式の様々な種類のリーダーたちについてあらましを示す必要がある。1990年代後半のウラン-ウルにおいて、sumyn darga(地域首長)やzasgiin darga(行政長官)といった政治職あるいは行政職のトップを占めていたより公式的なリーダーたちは、まだほとんどが様々な専門職者から採用されていた。医者や経済学者、会計士、獣医といった人々であり、彼らの多くは社会主義のあいだにもまた類似する地位を占めていた。そうではあったものの、さらに非公式的な三種類のリーダーたちもまた格別な優位を獲得――あるいは再獲得――しつつあった。

 一つ目には、「最年長の男たち(hamgiin ah[mad])」がいた。彼らは、地域のリーダーによって組織される特定の共同体の儀礼(第3章で説明した、いわゆるovoo山の儀礼といったもの)のみならず、結婚式のほか季節儀礼や人生儀礼といった世帯内や世帯間でおこなわれる祭礼の機会に重要な役割を演じた。彼らを任命することから含意されるように、hamgiin ahは老人の本質そのものを具現化するものとして、なにかしら考えられているに違いない。それは社会主義以前のダウール・モンゴル人の社会で、utaachiとして知られる年長男性の類似するカテゴリが果たしていたものと同様である。そこではそれぞれのutaachiはすべての(年長)男性がアクセス可能な経験を縮約したものと考えられ、同様の理由からutaachiは「一般男性のあいだから生まれる」(Humphrey 1996: 60)。だがコミュナルな儀礼(山の儀礼を含む)を執行するダウールのutaachibagchiとして知られていたのとは異なり、私の出会ったダルハドのhamgiin ahたちは特別な言葉の技術や儀礼的知識を持っているとはみなされてなかった。実際のところ年長であることを除いては、彼らに特別なところは何もないように見えた。彼らは格別に裕福でもなく、何ら特別な知識を持っているととも知られていなかった。私が参加した祝宴や儀礼では、まるで見えない磁場が出席者を周りに集めるかのように常に人々の真ん中にいることを除いて、彼らは全く何もしていないように見えた。hamgiin ahがまったく抜きんでているやりかたの一つは、yosに従ってすべての年寄りがなさねばならないことをおこなうこと、すなわち可能な限り動かずにいることである。なぜならほかの社会カテゴリに対して、年長者の身体的な振る舞いは彼らの生の段階を反映していると考えられているからである(Lacaze 2000)。

 二つ目に、ウラン・ウルの6つのサブディストリクトのリーダーたちがいる。bagiin dargaとして知られる彼らは、ランクの低い半選挙で選ばれた(semi-elected)政治行政官であり、歴史的な先行形態はダルハド・イ・シャブの時代のいわゆるotogリーダーまでさかのぼることができる(Badamhatan 1986: 80,127、Sandschejew 1930: 28-33)。いろいろな事柄のなかでも、これらのbag(サブディストリクト)リーダーは年二回の家畜計算や特定の税金の徴収に加え、柵の建設や森林火災の鎮火といった(多かれ少なかれ自発的な)コミュナルな仕事の計画に責任を持った。例外なく尊敬された比較的裕福な牧夫たちであり、以前のレスリングチャンピオンであることもしばしばであったウラン-ウルのすべてのbagリーダーたちは、昔ながらの父権的な意味における原型的な「主人(ezen pl. ezed)」であった。モンゴルの文脈のなかで継続するその重要性は、幾人かの人類学者によって論じられてきた(Humphrey and Sneath 1999、 Sneath 2000, 2007)。したがってウラン-ウルの5人の地方bagiin dargaはみな年長の男性であり、牧夫としての才能を称賛されただけでなく、大きな世帯と畜群を所有していた。私のホスト(彼自身は1990年代前半にbagとして村を率いていた)のように、彼らは「良い家」から出た仕事熱心で、尊敬でき、礼儀正しく、信頼に足る家長として知られていた。私のホストと同じように彼らも時々酔っぱらうが、それは誰もがそうなのであった。また彼らは時々けんかするが、誰もがそうするのであった。これは、「やりすぎない」限りにおいてはまったく良いことだと考えられていた(つまるところ、彼らは男性だったのだ)。

 三番目のタイプの非公式のリーダーは、「ビジネスパーソン」であった。商店主、ジープやトラックの所有者、そして様々な交易人の男女からなる、次第に影響力を持つようになったグループである。様々な商品を田舎へと運びまた田舎から持ってくることで(これはほとんど男性のみがおこなった)、あるいはウラン-ウルの村から地方首都へと運ぶことによって(男性と女性の両方によってなされる)、また地方首都で一部の者(女性が優越する)はモロンの拡大を続ける市場の自らの店で直接商品の販売にかかわり、全員が極めて豊かな暮らしをしていた(Pedersen 2006a)。みな大金持ちであるとうわさされ、私はしばしば(それは来るべき事態についての極めて正確な予測であることが判明したのだが)「彼らはすぐにここのすべてを経営するようになる」と言われた。彼らは賢くて緊密な関係を築いていると例外なく語られた。実際のところ彼らの多くは社会主義の時代に指導的地位を占め、いまやそのとき以来のtanilの有利さを生かすようになっていた。それはちょうど彼らの最も価値ある資産(トラックなど)が1990年代前半のあいまいな私有化の際に獲得されたことと同様である、

 換言すれば、1990年代後半のウラン-ウルの人々の一部は、重ねた年齢と権威によって非公式のリーダー(「最年長男性」)となり、ある者はそれぞれの共同体における模範的で信頼に足る庇護者となることによってそうなり(bagリーダー)、他方でまたある者は、特に富裕となることによってまた別な非公式のリーダーとなった(ビジネスパーソン)。私は、あらゆる種類の非公式のリーダー(atamanのようなシャーマン的な傾向のある慣習破り的なものを除いて)が持つ卓越性は、その意味では他の個人に対する「ハイパー類似」(他者が他者に似ているよりも、さらに他者に類似している)として認識されることから生じており、それは私が前に説明した、他の個人からの「ハイパー差異」(それは、他者が他者から異なるよりも、さらに他者から異なる)によって抜きんでるオカルト知の専門家とは反対である。

 だからもし北モンゴルにおける非公式のリーダーの卓越性が他者の様々なカテゴリに対してハイパー類似(同一性)であることの能力に内在すると言いうるのであれば、反対にオカルト知の専門家の卓越性は、すべての個人からのハイパー差異(非-類似であること)の能力に内在するとみなしうる。すでに見たように差異の対象となるすべての個人には、他の専門家(自らと同じ専門性のものも含む)だけでなく――まるで彼らはハイパー差異のロジックを限界まで突き詰めようとするかのように――自分たち自身も含んでいる。ゴンボドルジとシャーマンの先祖の事例はこの過剰な差異化がもっとも明白なところである。前節で論じたように、彼らは他者から異なるというだけでなく、お互いのあいだでも異なるよう運命づけられている。まったくのところ、もしウラン-ウルのすべての半-シャーマンによって共有されることが一つあるとすれば、それは差異への意思あるいは運命であり、つまり他の人間から異なることについての無比の能力である。他の人間に含まれるのは、リーダーや専門家であり、そして――彼らの虫のような身体とトリックスターのような精神ゆえに――彼ら自身である、

 このことを背景とするとダルハドの事例は、ハマヨン(1984)が隠し切れぬ構造主義者の失望を示しつつ嘆くモンゴルのシャマニズムの多くにみられる「断片的な」性質(一般的なシャマニズムの多くとは反対に、とハマヨンは暗示しているように見える)の事例よりも、はるかに異種混交的なものとして現れる。なぜならウラン-ウルには、ハマヨン(1990, 1994)の言う東ブリヤートと同じように、いくつかの種類のオカルト知の専門家がいる(シャーマン、預言者、狩猟者など)だけでなく、それぞれの社会学的カテゴリの内部にも顕著な変異が存在するからである。そこではそれぞれの専門家は物事をおこなうための彼/彼女自身のsodonのやり方を持っていると理解され、あまつさえそのことを称賛されている。これはハンフリーがモンゴル全体の事例として説得的におこなった観察である(Humphrey 1994a、1996、2008)。だが、これではまるでシャーマンの多様性を十分に提示したのではないかのようにして、私は自らのダルハドの資料に基づいてこの洞察に理論的なひとひねりを加えたい。つまり、ハンフリーやブヤンデルガーのような学者たちが明らかにしたオカルト知の専門家の個人主義を越えて、私が北モンゴルで出会ったシャーマンのペルソナはまた内的にも差異化されていたのである。それぞれのペルソナは、一部は人間から、一部は非人間からなる多数のエージェンシーのレイヤーから成り立っていた。

 

◎社会主義後のウラン-ウルに現れた三種類の世俗的なリーダーを紹介しつつ、彼らが傑出している理由とシャーマンのそれとを対比する節である。筆者によれば、最年長の男たち、サブディストリクトのリーダー、およびビジネスマンという新しい非公式のリーダーたちは、他者(の中にある理想的な姿)に極限まで接近する「ハイパー類似」によってその卓越性を獲得する。他方でシャーマンたちは、他のカテゴリや他のシャーマンたちを含むすべての個人から極限まで異なる「ハイパー差異」によって卓越性を獲得するという(F.F.)