2025年ーーーーーーーーーーーーーーーー
イタリア共和国 カラブリア州
ブーツの先、リカーディ
約束の海岸
ーーーーーーーーーーーーーーーー06:15
崖の下にある岩だらけの小さな浜辺。
白い霧が立ち込め、既に昇っているはずの太陽は隠されていた。
変色した木片が点々とし、その合間には青や黄色のビニールが薄汚れた顔を覗かせていた。
崖側には群青色の朽ち果てたボートが乗り上げ、船上に古びた網が山積みにされていた。
そんな世界に忘れ去られた様な浜辺に、カリーナ・アザロとカリーナ・モデナが手をつないで立っていた。
二人は霧の先を真っ直ぐと見つめていた。
そこへジュゼッペ・アザロと重、そして由加が崖を降りてきた。
ジュゼッペ・アザロはカリーナたちを見るなり目を丸くさせて言った。
【 カリーナ?………どういうことだカリーナが二人?】
重も驚く。
「おお?ほんとだ。双子みたいだな。由加、俺らのカリーナはどっちだ?」
【 チャオ。ジュゼッペ。あたしのママは?】
【 いや………。それは………】
続いて紺の光に反射するスーツをきたラウロ神父、黒の修道服に身を包んだ修道士数人が降りてきた。
ラウロが言う。
【 やっと見つけた。カリーナ・アザロ。GPSを埋め込んだのは左手だけじゃないよ?本当に悪い子だ】
【 お前がラウロ神父か?】
【 どうも。ジュゼッペさん。お初にお目にかかります。私がラウロですよ。父がお世話になったようで】
ジュゼッペはちらっと、赤いワンピースを着たカリーナ・アザロを見て、そして小さな声で言った。
【 ラウロ神父。なぜカリーナ・アザロがここにいるのか?】
【 ん?ジュゼッペさん。あなたがカリーナ・アザロとここで会う約束をしたからでしょう】
【 ………そういうことではなく……… 】
【 何がおっしゃいたいので?………まあ、貴方は下がっていてください。さあ!カリーナ・アザロ。母ビーチェに会いにいこう】
カリーナ・アザロはカリーナ・モデナの手を強く握って言った。
【 ラウロ。あなたは………。あたしがカプチン・フランシスコ修道会だと思っていたのはあなた達ルーシェ・フランシスコ修道会だった。どうしてそんな嘘をついたの?】
【 サラフィアの創った奇跡は一言では表し難いのです】
【 カリーナ・アザロ、騙されるな。こいつはお前を母に会わせるつもりなんてない!お前の延命を教義の為に利用したいだけだ】
【 ………ジュゼッペさん。どうして我々ルーシェ会がカリーナ・アザロを母ビーチェに会わせないって分かるのです? 】
【 それは………】
【 貴方は何かカリーナ・アザロに嘘でもついているんですかな】
【 嘘をついているのはお前らだ。でも………】
【 ………まあいいでしょう。カリーナ・アザロ。母ビーチェに会いに行こう】
【 ………ジュゼッペさん、言いにくいなら私が言ってあげる】
「おい、由加、口を出すな………」
【 カリーナ・アザロ!!】
カリーナ・アザロはその暁の様な赤みを帯びた瞳を由加に向けた。
【 貴方のお母さんのビーチェは………。お母さんは40年も前にもう死んだ!
ビーチェは延命なんてされてない!そしてビーチェは貴方の延命も止めるよう、安らかに眠らせるよう、カプチン会に頼んだ!
こいつらルーシェ会は、カプチン会だと偽って、自分たちの教義の為に貴方を利用していたの。
………105年間も………。お母さんはもう死んだの!カリーナ……… 】
カリーナアザロはその暁のような目を、初めて伏せた。
唇を噛み、物悲しい笑顔を浮かべた。
【 ………何となく分かっていた。あーあ………。やっぱりそうか。ママには会えないかぁ。何のための105年だったか………】
ラウロ神父は修道士から黒い箱に入った複数の注射器を受け取って言った。
【 カリーナ・アザロ。こんな外国人たちの言うことを信じるのか?さあ、ビーチェに会いに行こう。それにもうD.S.を打たないと身体が持たない】
ジュゼッペ・アザロが言う。
【 ………カリーナ。もういいだろう?そんな薬を受け入れるな。
アザロ家はそのD.S.が生涯効かなくなる薬を持っている。
それ使うと多分、お前は数年も経たず、今抱えている病で死ぬだろう………。
それまで安らかに、わしたちと暮らそう 】
【 ほう、ジュゼッペさん。カリーナ・アザロに死ねとおっしゃるんですな?】
【 ………違う。カリーナ・アザロ。………実は今、ビーチェ・アザロを連れてきている】
【 ………どこに?】
ジュゼッペは上着のポケットから小さな巾着袋を出した。
それを開き、ガラスケースの中で白い綿で包まれた小さな骨を取り出した。
【 ビーチェの小指の骨だ。お前には渡すまいと思っていたが………。受け取ってくれ】
カリーナ・アザロは大粒の涙を流し始めた。そうしてようやく子供らしく、ひきつけながら、泣き声をあげた。
【 ………105年も、ずっと小さな箱の中で待ってて。いつかママと、どうしてみんな、どうしてこんな酷いことをするの?どうして 】
由加はカリーナ・アザロに駆け寄り、抱きしめた。
【 大丈夫。大丈夫だよ。カリーナ・アザロ。ママはずっと貴方のことを見てる。大丈夫………。ね、ジュゼッペさんと帰ろう 】
【 ………いや。もういいの。今は何時?】
【 6時半前 】
【 ………そう。もうすぐ来る】
【 何が来るの?】
霧の中から見慣れた漁船が現れた。
船上に漁業用のランプを照らし、小さな黄色いボートを曳航していた。
【 お嬢ちゃん。待たせたな。ボートと………ガソリンを持ってきた。これでいいのか】
【 ありがとうエリクさん。最期の金貨をあげる】
【 いや………これの代金はいらない。さあ】
ジュゼッペ・アザロが身を乗り出して叫んだ。
【 カリーナ??何をするつもりだ?】
【 ママと一緒に眠る。こんな方法しか分からなかったの。】
由加は声の限り叫ぶ。
【 カリーナ??死ぬつもり??ダメ!ママはそんなこと望んでいないよ!】
【 ………あなたたちが棺で105年眠ったことがあるのなら、言うことを聞くわ。でももう、あたしの好きなようにさせて】
カリーナ・アザロは母ビーチェの骨とガソリンを持ち、小さなボートで霧の中の海へと消えていった。
ボートはきしみ、小さな悲鳴の様な音を立てながら、静かな干潮へと柔らかな波紋を立てた。
一寸先も見えない霧の中、カリーナ・アザロは真っ直ぐと前を見据えていた。
そして生命というのは今まさに自分の置かれている状況そのままだと思った。
この霧の中で、自分たちはほんの少しバランスを崩しただけで、底の見えない冷たい水中へと投げ込まれる。
そんなにも不安定で、そして岸がどこにあるのかも、そもそもそんな岸なんてあるのかも分からない中、自分たちは櫂を漕ぐ。
しかしいくら霧が自分たちを惑わしても、この小さなボートの船首はしっかりと見えている。
結局、霧で前が見えないということ自体が、私たちがいつだって光の中にいることだと思った。
いつの間にか船には母ビーチェ・アザロが座っていた。
霧の中、寂しそうな笑顔を浮かべていた。
ママ?泣いてるの?
泣いてなんかない。大丈夫。
サラフィアさんは何て?
先生って言いなさい。………カリーナは大丈夫だって。
何が?
とても長生きするって!健康だって。
本当?やった!
………でも。本当はね。
カリーナ。私たちが悪かった………。
延命が永遠に変わってしまったのは、私とフランコのせいだ。105年もお前に寂しい思いをさせた………。
………いいの。お母さんとお父さんは、あたしを治そうとしたんだから。もういい。一緒に、この海で眠ろう………。今度こそずっと。
………カリーナ。
私の天使。
何度、生を繰り返したとしても、お前を愛す………。
カリーナ・アザロはビーチェの膝の上に座った。
………ふと、母と一緒に食べたパンの、バターの香りがした。
何も見えなくなった沖合に、ほんの一瞬、小さなオレンジ色の炎が見えた。
(終話へ)