シチリア島の聖アガタ
(Sant'Agata, ?? ー 250年頃)
キリスト教カトリックにおける、イタリア・シチリア島の聖人。
時のローマ権力者から拷問を受け、乳房を切り落とされたとされる。
その後は奇跡的に火刑を免れたが、獄死した。
盆の上には自らの乳房を乗せている。
2025年ーーーーーーーーーーーーーーーー
イタリア共和国 カラブリア州
ブーツの先、ポマレッリ
漁港
ーーーーーーーーーーーーーーーー21:22
漁港の強いライトが桟橋を照らす中、光に反射する紺のスーツを着た男と数人の修道士たちが何やら話をしていた。
カリーナ・アザロはその側のブロックに座り、足をブラブラとさせていた。
紺のスーツの男は桟橋を振り返り、漁船の船長に声をかけた。
【 ガソリンが入ったら出港する。エリク氏。急いでくれ 】
【 そんなに時間はかからんよ 】
そこへ1人の修道士がスマホのスピーカー部分を抑えながら、紺のスーツの男に話しかけてきた。
【 ラウロ神父、カプチン・フランシスコ修道会のリベンツィオ神父からお電話です。使者を送りたいと。電話には出れないと何度も言っているのですが……… 】
カリーナ・アザロは赤色のワンピースのフリルを指で弄びながら、訝しげな目をラウロ神父に向けた。
【 ………後でかけ直すと言え 】
ラウロ神父はカリーナ・アザロに目を合せず、従者を手で追い払った。
そこへ漁船から漁師のエリクが桟橋に上がってきた。
【 おい、神父さん。全員は乗れねぇぞ?まあ、とりあえずは出港前にトイレ行かせてくれ 】
エリクが立ち去ろうとしたとき、カリーナ・アザロはラウロ神父のスーツの裾を引いた。
【 ………あたしも行きたい 】
ラウロ神父は一歩下がった暗がりにいた女の従者に目配せをした。
それは修道服に身を包んだ背の低い中年の女だった。
しかし歳を感じさせない敬虔さに溢れた目を、表情をしていた。
【 イレーネ 】
【 はい。ファーザー 】
【 カリーナをトイレへ連れて行ってやりなさい。私はお前を信用している。お前も私を。そうだな? 】
【 はい。ファーザー……… 】
港に面した漁協の2階建て事務所の隣に、小さなコンクリート作りの公衆トイレがあった。
その薄暗い女子トイレで、カリーナ・アザロは腰を下ろしていた。
古い電球が小刻みに点滅する中、藍色の木製ドアの下にはカリーナ・アザロの足が見えていた。
フリルのついた白い靴下に、こげ茶色の新品のローファーがぶらぶらとしていた。
その愛らしく揺れる足を、イレーネは洗面台から見守っていた。
【 ………イレーネさん 】
【 なあに? 】
【 どうしてカプチン・フランシスコ修道会のあなたたちに、カプチン・フランシスコ修道会から使者の申し出があるの?】
【 ……… 】
【 薄々気づいてた。あなたたちはカプチン・フランシスコ修道会の人じゃないでしょう? 】
【 ………私達はカプチン会の分派ですが 】
【 40年前、あたしは修道会の地下で覚醒して、隠れて神父の部屋からママに電話した。そのデスクには『ルーシェ・フランシスコ修道会のラウロ神父』宛の手紙があったわ……】
【 ………さあ手を洗いましょう。カリーナ・アザロ。船が出てしまう。急いで 】
【 ねえ………イレーネ。少しだけあたしの馬鹿なお祈りを聴いて 】
【 ………お祈り? 】
………そう。
………悪魔がいないと、天使が困るの。
その逆も同じ。
そして罪人がいないのなら、聖人は存在しない。
弱者がいないと、強者も存在しない。
子供がいないと、大人も存在しない。
………限りがないと、永遠は存在しない。
そんな相反するものがないと成り立たないような、歪な存在だよ、あたしたちは。完全ではないの。
だから、
必要悪。
必要弱。
必要な悲劇たち。
全ての救われる人たちの為に、救われない悲劇が存在する。
人間は選択する能力こそが最善の知恵だと考えているけれど、あたしはそうは思わない。
何かを選ぶということは、何かを上に置くこと。下に置くこと。
果たして全知全能の神さまが、そんなミスを犯すのかな?
神さまはそもそも全てを許しているはず。
原始時代のお猿さんから、そしてそれを否定するエデンの園から、
あたしたちはずっと神さまの掌の中でカードを引いている。
………誰かが必ずジョーカーを引く。
あたしたちの祈りは正しい場所に向けられているのかな。
宇宙があるのなら全知全能の神さまは必ずいるはずなんだけど。
シチリア島の聖アガタは、何のために乳房を切り落とされ、生涯、拷問を受けたの?
死んで聖人となって永遠の存在に選ばれたことを、聖アガタはどう思ったんだろう?
あたしは小さな棺の中で、それを105年も考えてきた。
必要な弱者のこと、必要な悲劇のこと、そして救われない者たちのことを。
………今のあたしもそう。半永久的に独りで生きるという運命を、利用されている。
あたしの地獄で、みなは救われる。
あたしの中の神はとっくに死んだよ。
後はママを抱きしめたいだけ。
【 ………。カリーナ………。貴方はあなたの信仰………生きる道を貫いて下さい。 どうぞ、好きに生きて。逃げてください。私とはここでお別れです。
しかし、マリア(聖母)を求め続けている貴方を、マリア(聖母)と崇拝した愚かな我々をも、慈しんで下さい。
神のご加護があらんことを 】
カリーナ・アザロは夜の街へと走り出した。
(つづく)