吉川祐子は考えていた。
マンション隣室のシングルマザーの事だ。
入居時は小学生の娘を連れていた。
キャッキャと母親に飛びついていた。
しかしそれから半年も経つが一度も娘を見ない。
登下校時も土日の昼間も。
母親はいつも夕暮れ時に買い物袋を下げて帰ってくる。
明らかに自炊で、量も一人分ではない。
すれ違いざまに声は掛け合うが挨拶だけだ。
娘はどこに行ったのだろう?
ふと、恐ろしいことが吉川祐子の頭をよぎった。
ある日、吉川祐子は生きた車海老を貰った。
愛媛の叔父からだった。
箱の中に敷き詰められたおがくずの中で、車海老がガサガサと動いていた。
これが鮮度を保つ方法なのだ。
吉永祐子はこの車海老をシングルマザーにおすそ分けする事にした。
もちろん親切心だけではない。
「ありがとうございます。あれ、中で動いてます?」
「漁れてすぐに、おがくずに包んで送られてくるんです。新鮮で美味しいんです」
「いや、ほんと、ありがとうございます」
「いえいえ」
吉川祐子はシングルマザーの顔なぞ見てはいなかった。
彼女の背後や部屋の奥、子供がいないかチェックしていた。
19時をまわっているから居ない訳がない。
その訝しげな目をシングルマザーは読み取っていた。
しかし高級品を貰って安々とドアを閉める事はできない。
吉川祐子もその心理を良く分かっていた。
だからあえて図々しく会話を続けようとした。
「え、あの、入ります?お茶でも飲みませんか」
「あら。じゃあお邪魔しましょうか」
部屋の中にはぬいぐるみやキャラクターの描かれた毛布、おもちゃ箱があった。
そして子供の体操着が干してあるのも吉川祐子は確認した。
「可愛い部屋ですね」
「娘と2人なもので、自然とこうなってしまいます。お茶です。どうぞ」
吉川祐子はこのシングルマザーは意外と気が弱いと思った。
だからもう少し踏み込んだ質問をしても良いと判断した。
「娘さんは今日、お泊まり会?」
「ええと、実は生まれつき身体が弱くて。今は祖母の家にいるんです」
「いつから?」
「少し前です」
「その割には買い物が多いね」
「買いだめするほうなんです」
「昨日の体操着が干してあるのに?」
「洗わなきゃいけない時もあります」
「へえ」
吉川祐子はため息に近い声をだした。
そこへシングルマザーがニコニコと言う。
「ねえ………………吉川さん、このお茶おいしくありませんか?」
「はい。????………そうね、ね?あれ?」
「私の!!長崎の母が!!このお茶をおがくずに包んで送ってくれたんです」
「う、うん。??あれ?」
「ガサガサしますか?箱の中は」
「え、えん。うんうん」
「こら、祐子」
「は、はい」
「押し入れに戻りなさい」
「………明日は出ていい?」
「ダメ。言うこと聞かないの?」
押し入れの中は意外と広かった。
窓もあった。
初夏の柔らかな日差しの中、白いカーテンが揺れていた。
吉川祐子はその六畳間に座り、おがくずの中の遺影を見ていた。
それが誰だかは分からなかった。
隣の部屋から子供の遊ぶ声が聞こえる。
吉川祐子は顔を伏せて謝り続けた。
(写真は全てAIに描かせたものです)