母さんはベッド脇に座って深呼吸をし、バッグからシロバコを取り出した。
「お母さん………車で来たの?」
「昨日の夜から8時間かかった。早くしないと間に合わなくなる。昨日から恐ろしいモノをたくさん見たでしょう?」
「………うん」
「あいつらは黒身(こくしん)と言う」
「こくしん?」
「人間の大きさの黒いカマキリ。何にでも姿を変えられる。多くは昼間、普通の人間として暮らしている。
だけど標的の人間を見つけると、色んな幻覚を見せて酷い状況を作り出し………絶望させてその『感情』を喰らう。喰われた人間は多くの場合、自ら命を断つ」
母さんは私の毛を1本抜いてシロバコに収め、上を向いて大きく鼻をすすった。
「私達の住む黒氏盆地の森はあいつらの根城なの。だから私らは毎年の盆、あいつらから逃れるため、黒氏洞穴に自分の髪の毛を収めたシロバコを置く。
この行為をした者を髪子(かみんこ)と言うの。黒身に対して『この人に手を出してはいけませんよ』というご先祖様を通したメッセージなの」
「………シロバコ、洞穴から出してきて大丈夫なの?」
「分からない。でも京香は本来、黒身が手を出せない黒氏町の出身。だから髪子(かみんこ)を行っていない京香は、あいつらにとって絶好の獲物なの。普段、食べたくても食べれないモノだから」
「そんな話、初めて聞いた」
「母さんも全ては知らない。でも母さんが知っていることは、京香が家庭を持ってから話そうと思ってた。他にも色々伝えたいところだけど、母さんは一刻も早く黒氏洞穴にシロバコを納めに行かないと」
「………夜勤の看護師とさっきの医師は多分、人間じゃないよ」
「母さんもさっきの医師は黒身(こくしん)だとすぐに分かった。何故かは分からないけれど。でもあいつらは物理的には人間を殺さない。
死なない範囲で、落胆と恐怖と、そして絶望を煽るだけ。それがあいつらの食べ物だから。今は京香に頑張ってとしか言えない。母さんも頑張るから」
母さんは私の髪が入ったシロバコを持って出ていった。
しかし駐車場の車に乗り込んだ瞬間、上から車椅子が落ちてきたらしい。
母さんは失明するかもしれない大怪我を負った。
すぐに駆けつけたのは『あの医師』だった。
そして警察がいくら調べても、どうやって病院の上から車椅子が落ちてきたのか分からなかった。
夜が来る。
(つづく)