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ワニのプランクの皮肉が私の鼓膜を震わせる前に、私の意識は鼻の穴から吹き出し知識と記憶の間へと滑り落ちた。

 

 

私の背丈の倍もある大きな木製の本棚が、薄暗闇の中ずっと奥まで連なっている。

並べられたテーブルには、緑色の傘が光を放っている。

 

 

私はそこで白紙のノートを片手に、古い天文学の本を読み始めた。

 

 

書物のあの独特な、柔らかく香ばしいバターの様な香りがして、智の風が私の脳の柔らかな部分をくすぐる。

その尊い風に吹かれた光る胞子が、切り開かれた記憶の大地へと種子を運んでゆく。

 

 

知恵とは何と麗しいものだろう。

 

 

この後天的でありながらも、天の楽園を追われた時に生まれた悪魔の力は、私たちの魂と他の一切のものを繋ぐ架け橋のようだ。

 

 

ちょうど、僧侶たちが並んで眠る聖なる伽藍に、突然、狂おしいヴァイオリンの音を轟かせたような、力強くて甘い、求めずにはいられない果実。

 

 

………と、そんな私の空想を打ち砕くように、目の前のページには奇妙な立方体が浮き上がってきた。

 

私はそれを何度もノートに書き移そうとするのだけれど、書くたびに前のページと次のページが消えてゆく。

 

 

ノートのページが尽きることを恐れた私は、ランダムにあちこちのページに書き写していく。これなら最後のページにも最初のページにも届かない。

どれだけ消えようとも永遠だ。

 

 

だけど”何か”には届かない。姿さえ分からない。姿があるのかさえ分からない。

 

 

そこに緑の傘から空間をこじ開けて、ワニのプランクが出てきた。

車を整備した後かのような、黒い油だらけの青い作業着姿だった。

 

 

「なるほど、なるほど、自分と向き合うことができず、とうとう智に逃げ込みましたか」

 

「………。私の『誰か』は誰なの?」

 

 

プランクは私の目の前に座り、胸ポケットから分厚い歴史書を出し、目を落とした。

 

 

「貴方の人生に背を向けた者を、探し出すのはとても困難です。というか、もう会いたくないんじゃないですか」

 

 「それは………」

 

「貴方が拒絶したのです」

 

「違う………私は」

 

「貴方が忘れようとしたんです。病気のせいにして」

 

「違う………そのほうがあの子の為にいいと」

 

「随分と手前勝手な話ですな、あの子の前に現れたり、消えたり」

 

「………」

 

「四次元立方体に存在する高次元の何かとは………」

 

「………私は夕ちゃんに会いに行く!!」

 

 

突然、私の足元に穴が開いて、逆さになった水面に向かって、私は真っ逆さまに落ちていった。

 

 

 

 

 

どこからかふわっと、雨の匂いがした。

誰かの声が聴こえる。

心が鉛筆になる。

 

 

世界を変動させる、何かの力が働いた。

 

 

 

 

 

(つづく)