1話完結のショートストーリーですニコニコ

ある老夫婦の1日です。

 

 

 

 

 

 

<<緑風(りょくふう)>

初夏の青葉を吹き渡るさわやかな風。薫風。

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6月の晴れた午前だった。

陽子は庭先の植木鉢に水をやっていた。

午前と言えど日は高い。

生暖かく、まとわりつくような空気が流れていた。

 

 

息子夫婦は海外旅行にいった。

孫は東京で通販関係の会社に勤めている。

 

 

陽子も旦那ももう80歳を超えた。

陽子は家事をほとんど引退し旦那もこの古い家の縁側で一日中詰将棋をしてる。

 

 

平和ですこし温もりのある風が陽子の頬をとおりすぎた。

 

その時、陽子はおや、と思った。

光が当たる植木鉢と今の風を以前に感じた事があったのだ。

何だかちょっと胸騒ぎがした。

 

 

すこし時間をおいた後、陽子は奥の部屋で編み物をしてた。

旦那は相変わらず縁側でパチッパチッと将棋の駒を刺していた。

 

 

陽子は先ほどの胸騒ぎが何なのか気になっていた。

夏の温もりのある風と庭先の植木鉢。

なかなか思い出せず、宙をみたりしていた。

 

 

ふと何気なく旦那の方をみた。

陽子の胸が突然ざわめいた。

思い出した。

 

 

息子が生まれる前、ずっと昔、今みたいな気候の中、縁側で陽子は旦那にプロポーズされた。

 

 

結局は予備役で終わったが戦争が二人を別つかもしれない時だった。

そして実は旦那がどんなプロポーズの言葉を言ったのかを陽子は覚えてなかった。

 

 

ただ思い出せるのは温もりのある風と庭先に置かれていた植木鉢。

その時は恥ずかしくてそれを見つめるしか、できなかったのを覚えてる。

 

それらのことが陽子の胸に、モノクロから鮮やかな色へと変わった。

そして結婚してから60年来、今まで聞かなかったことを旦那に聞いた。

 

 

「わたしのこと、まだ好きですか」

 

 

陽子はもう、しわくちゃだ。目こそ昔のように輝いていたが、

もう化粧もしない、髪の毛はぬける。

 

 

愛されているのはわかってる。でもこんな私でも、あなたはまだ恋してくれますか?

 

旦那は見向きもせず、まだパチッパチッと将棋の駒を刺していた。

自分の旦那がそういう事に答えないのは陽子が一番よくわかっていた。

 

 

夕暮れになった。どこからかヒグラシの音が聞こえてきた。

「お父さん、私、買い物にいきますね」

「ああ、俺も行く。釣具屋行きたいから」

 

 

二人は森林公園の中を歩いていた。

夕暮れとはいえ、陽はまだ高い。

 

 

そしてスーパーと釣具屋を別つ十字路にでた。

右に曲がれば釣具屋だ。

 

 

だけど旦那は道を曲がらず真っ直ぐに歩いて行った。

「お父さ………」

 

 

陽子がそう言おうとした瞬間、旦那は陽子の手をぎゅっと握った。

 

 

陽子の中で60年の歳月が一瞬で過ぎた。

そしてその手を握り返した。

 

 

 

 

 

二人の肩の間を、鮮やかな緑色の風が吹き抜けた。