ヌーベルヴァーグ(勝手にしやがれ他2本) | 懐古趣味親爺のブログ

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幼少期(1950年代)から成人期(1970年代)までの私の記憶に残っているものを網羅。

1950年代末にフランスで始まった映画運動にヌーベルヴァーグがあります。助監督などの下積み経験なくデビューした若い監督たちがロケ撮影中心、同時録音、即興演出などの手法で撮った作品群です。『勝手にしやがれ』『ピアニストを撃て』『気狂いピエロ』は、その代表的なもの。

『勝手にしやがれ』(1960年/監督:ジャン・リュック・ゴダール)

自動車泥棒の常習犯ミシェル(ジャン・ポール・ベルモント)は追いかけてきた白バイの警官を射殺。新聞の売り子をしているアメリカ娘パトリシア(ジーン・セバーグ)のアパートに転がりこみます。ミシェルは金ができたら外国へ行こうとパトリシアを誘い、彼女もそれに同意。しかし、パトリシアはミシェルよりも自由を選び、警察に密告。旅支度をしているミシェルに警察が来ることを告げますが、ミシェルは逃走せず、刑事に射殺されます。

最近の映画はタイトルを英題そのままにカタカナにしていて、齢のせいもあって憶えられません。昔のように味わいある的を得たタイトルがありませんな。この作品の原題は「息切れ」「へたばる」といった意味のようで、これを『勝手にしやがれ』と邦題をつけたのが、いかにもヌーベルヴァーグの斬新な感覚にぴったり。

ゴダールの意図は、「使い古された物語をいかにそうでないかに作り直すことにあった」そうで、手持ちカメラの使用、即興演出、常識を無視した編集で革新性を出したとのこと。理屈でなく、感覚的に面白い作品だと私は思いますが、ヌーベルヴァーグはよくわかりませ~ん。

 

『ピアニストを撃て』(1960年/監督:フワンソワ・トリュフォー)は、ゴダールと並ぶヌーベルヴァーグ監督トリュフォーのサスペンス映画。

パリの場末のカフェでピアノを弾いているシャルリ(シャルル・アズナヴール)のところへ二人組に追われた兄シコ(アルベール・レミー)が逃げ込んできます。シャルリはシコをうまく逃がしてやりますが、今度はシャルリが二人組につけまわされることになります。シャルリは好きになった店の給仕女レナ(マリー・デュボア)と一緒のところを二人組に捕まりますが、隙をみて逃走。シャルリとレバは強く惹かれあい、人生をやり直すために店主のプリーヌ(セルジュ・ダウリ)にカフェを辞めると言います。レナに横恋慕しているプリーヌはシャルリを殺そうとして逆に殺され、シャルリはレナと兄リシャールの山小屋へ。そこにはシコもいて、弟のフィード(リチャード・カナヤン)を人質にした二人組が現れます。銃撃戦がはじまり……

主人公は、かつては天才ピアニスト。臆病な性格から、妻(ニコル・ベルジェ)との間で悲しい出来事がおこり、人生に絶望して心を閉ざしています。この回想シーンの比重が大きく、人間ドラマを形成。弾き手を見せず、ピアノハンマーが弦を叩くだけのタイトルシーンだけでトリュフォーの味が出ています。原作を忠実に正攻法で演出すれば、普通のノワール・サスペンスになってしまいますが、トリュフォーは洒落っ気たっぷりに演出。乳房を丸出しにしている娼婦(ミシェル・メリシェ)に対して、シャルリが「映画ではこうするのさ」と言ってシーツで乳房を隠すシーンは、当時の映画のベッドシーンに対する皮肉。この映画以降、ベッドシーンで女性の乳房をシーツで隠す演出はなくなったとのこと。

「筋書通りの物語から離れたかった。どのシーンも楽しめるものにすることだけを基準にした」と語っているように、遊び心が多くて、まともなノワールを期待していた観客に受けが悪く、公開当時は不評だったようで~す。

 

『気狂いピエロ』(1965年/監督:ジャン・リュック・ゴダール)は、ゴダールのヌーベルヴァーグの到達点と云われる作品。

フェルディナン(ジャン・ポール・ベルモント)は、金持ちのイタリアン妻との生活に退屈し、無為な都会生活から逃げ出したい衝動にかられています。子守りにきた昔の恋人マリアンヌ(アンナ・カリーナ)と再会し、彼女のアパートへ。翌朝、首にハサミを突き立てられて死んでいる男を発見。マリアンヌは一向に気にする様子がなく、フェルディナンは昔より魅力的になったマリアンヌとパリから逃げ出します。マリアンヌの兄がいる南仏に向けて強盗旅行。孤島での愛の日々を夢想しますが、殺人や武器密輸ギャングのごたごたにまきこまれ、おまけに彼女の兄というのが情夫だったことがわかり、怒ったフェルディナンは彼女と情夫を撃ち殺し、自身は頭にダイナマイトを巻いて自爆。マリアンヌはフェルディナンをピエロと呼んでおり、それで“気狂いピエロ”ね。

自由、挑発、疾走、目くるめく引用と色彩の氾濫、そして饒舌なポエジーと息苦しいほどのロマンチズムと評価しているように、バスルームでのエリ・フォールの「ベラスケス論」の朗読から始まり、サミュエル・フラーが本人役で出演して語る「映画論」、そしてラストのアルチュール・ランボーの詩句。赤・青・黄の原色が画面を彩り、つんのめるようなカットのつなぎ。印象に残る作品ですが、私にはゴダールがよく解からな~い。