おはなはん | 懐古趣味親爺のブログ

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幼少期(1950年代)から成人期(1970年代)までの私の記憶に残っているものを網羅。

現在でも続いているNHKの朝ドラは、1961年の『娘と私』から始まります。ラジオで小説を楽しむ“ラジオ小説”というのがあって、テレビ時代を迎えて、文学とテレビが結びついた“テレビ小説”が誕生。原作・獅子文六の『娘と私』は、連続テレビ小説と称され、出勤の支度などに追われる朝の忙しい時間帯だけに、ナレーションで心理描写や情景、動作などを説明するという新しい演出法が試みられました。壺井栄の『あしたの風』、武者小路実篤の『あかつき』、林芙美子の『うず潮』、川端康成の『たまゆら』と続き、6作目が『おはなはん』(1966年4月4日~67年4月1日放送)です。それまでの文豪の原作と異なり、『おはなはん』は、林謙一の随筆が原作。脚本家の小野田勇が物語の殆どを創作しています。

ストーリーは明治36年から始まり、伊予・大洲に暮らす浅尾はな(樫山文枝)が軍人の速水謙太郎(高橋幸治)と見合い結婚。速水の実家・鹿児島での婚礼後、二人は速水の転属先である東京で新婚生活。長男・謙一郎(津川雅彦)が生まれた時、日露戦争が勃発。速水は出征しますが、無事帰還。速水の転属により一家は弘前に移ることになりますが、長女が生まれたばかりで、速水は春まで単身赴任。赴任先に向かう列車で、自殺しようとしていた弘前の芸者を助けたことから、速水と芸者は懇ろになります。冬が過ぎて弘前にやって来たはなは、その事を知り苦悩。どうにか芸者との縁が切れて一安心していたところ、速水が演習中に急死。未亡人となったはなは、大洲に戻りますが、医者を志して東京へ。女手ひとつで子どもたちを育てながら、幾多の困難を乗り越えて成長していきます。

“おはなはん”という愛称で呼ばれる底抜けに明るく、周囲に笑顔と幸福をふりまく女性の一代記。原作者の母親の実話を基にしています。このドラマの原形となった『おはなはん一代記』が、同じNHKで62年11月2日に単発で放送されており、その時主演した森光子が同じく主演予定でしたが乳腺炎で入院。そこで、急きょ新人を起用することになり、白羽の矢が立ったのが劇団民芸の樫山文枝でした。担当プロデューサーが名簿の写真を繰っていて「おかめフェイスというか、力いっぱい壁にたたきつけられた大福餅のような妙ちきりんな顔」に動かされて抜擢したとのこと。美人ではないが愛敬のある樫山文枝の可愛らしさに主婦たちは共感をおぼえ、大人気となります。

相手役は、『太閤記』の織田信長役でブレイクした高橋幸治。人力車に乗ってやって来たシーンから人気が沸騰し、やがて速水が病死することを知った視聴者から助命嘆願の手紙が殺到。「殺したら、結束して受信料不払いをします」という脅迫まで舞い込んだそうです。それで、織田信長と同様に、伸ばしに伸ばした上で死なせたのですが、その後の1ヶ月、平均視聴率は5~8%も下がりました。速水ロスですな。おはなはん自身も最終回では大往生とげる予定が、モデルとなった原作者の母親が存命だったこともあって、おはなはんが自身のドラマ(第1回放送)を見るシーンで終わります。

平均視聴率は45.8%、最高視聴率は56.4%というお化け番組になり、朝8時45分になると水量メーターが急に下がり、水の出がよくなったとのこと。舞台となった大洲市には、駅前におはなはんのブロンズ像が作られ、おはなはん通りまでできる始末。

映画界では5社のうち、東宝をのぞく4社が殺到。日活は吉永小百合、大映は若尾文子、東映が佐久間良子、松竹が岩下志麻で競いあった結果、松竹・岩下組に凱歌があがり、1部・2部と作られました。相手役の速水謙太郎には栗塚旭。画像は、岩下志麻とおはなはん役を争った倍賞千恵子が歌った『おはなはん』のレコードジャケット。テレビドラマではインスタルメンタルだけでしたが、横井弘が曲に詞をつけて30万枚を超すヒットになりました。1966年の紅白歌合戦で倍賞千恵子は、この歌を歌っていま~す。