貸本屋と貸本マンガ(劇画) | 懐古趣味親爺のブログ

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幼少期(1950年代)から成人期(1970年代)までの私の記憶に残っているものを網羅。

現在では消えてしまった職業として貸本屋があります。

江戸時代がルーツの貸本屋は、本を背負って町を回る配達式でしたが、店を持ち図書館方式になったのは、明治になってから。本の流通が拡大して誰でも本が買えるようになると姿を消しましたが、太平洋戦争後に再び復活します。1948年に神戸市で開業した「ろまん文庫」は、保証金による制度を改めて、身分証明書(学生証や米穀通帳など)などで居住地が確認できれば誰にでも貸出し。この方法で「ろまん文庫」は繁盛し、全国の貸本屋がこれに倣います。最初は大人向けの大衆雑誌、大衆小説が主体でしたが、50年代にはいると少年・少女向け月刊雑誌が次々に発刊され、貸本屋にマンガが入りこみ、客層は大人から子供へと変化。さらに、一般の書店では購入することのできない劇画と呼ばれる貸本マンガが青少年の固定客をつかみます。貸本屋の全盛期は1955年から59年頃までで、全国で2万軒から3万軒、都内で3千軒あったようです。60年代になると『少年マガジン』『少年サンデー』など週刊マンガ雑誌が刊行されて少年たちの興味は移り、貸本マンガが廃れ、70年代初めには貸本屋は3500軒と激減。景気がよくなり、経済的に豊かになってゆくと子供たちにも雑誌が買えるようになり、貸本屋は自然と消滅。

私が子供の頃、町内には貸本屋が2軒ありました。1軒は、家から少し離れた所にあった駄菓子屋兼務の貸本屋。ソースセンベイやニッキ飴などの菓子類が前に並んでいて、壁際の本棚に貸本が置いてあるというレイアウト。マンガを見ながら駄菓子を食べろという関連販売だったのでしょう。もう1軒は、近所にあった専門の貸本屋。平台に『少年』や『少年画報』などの月刊誌と付録の別冊マンガ(5~6冊紐綴じ)が置かれ、壁際の本棚が大人向けの小説と貸本マンガ(劇画)コーナーになっていました。利用していたのは近所の貸本屋ね。私は『少年画報』を定期購読していたのですが、月刊各誌には必ず人気マンガがあって、他誌を購読している友人と回し読みするんですが、それでも足りなくて貸本屋を利用。目当ての月刊雑誌がなくて、白土三平の『忍者旋風・風魔忍風伝』を見つけ、雑誌にはない動きのあるリアリスティックな画風に魅了されてからは白土マンガを優先。ストーリーも面白く、大人の世界に導かれた感じでしたね。白土三平を探して貸本マンガ(劇画)コーナーを物色するうちに、平田弘史・さいとうたかを・佐藤まさあきなどを知っていきました。

53年から57年頃までが貸本マンガの第1期で、マンガの質とかレベル、個性といったものは問題にされず、手っ取り早くマンガを金にしようとする新人や他の職業からの転職組が次々にデビュー。殆どが手塚治虫の亜流でした。そんな中で、横山光輝・わちさんぺい・堀江卓・一峰大二・桑田次郎などが才能をのばし、雑誌に移っていきます。一方、56年に大阪の“日の丸文庫”に若いマンガ作家たちが集結。松本正彦・辰巳ヨシヒロ・さいとうたかを・佐藤まさあきといった人たちです。当時の児童マンガとの区別のため、笑いの不在、写実性の追求、読者対象の拡大を3大要素として、辰巳ヨシヒロが自らの作品を劇画と称したことから、彼らの間に劇画が定着します。拠点を東京に移していたさいとうと辰巳は、関西に残っていた“日の丸文庫”出身の作家たちと団結。59年に辰巳ヨシヒロ・さいとうたかを・佐藤まさあき・石川フミヤス・桜井昌一・山森ススム・K元美津による劇画工房を結成し、貸本マンガを量産。既に貸本業界で確固たる存在になっていた白土三平や水木しげるの作品も人気を呼び、58~61年が貸本マンガの第2期にあたり、全盛期だったといえま~す。