制作の区切りに、

二週間で三つの坐禅会に参加してきました。

一泊二日、一日、二泊三日の日程で、

とても勉強になった二週間でした。

 

 

 

最後の坐禅会の法話の中で、

「法身を覚了すれば無一物」

という言葉がありました。

これは七世紀中国の永嘉による『証道歌』の中の言葉です。

永嘉は中国禅宗六祖の慧能に参じた方です。

 

この「無一物」は以前にも書きましたが、

慧能の偈が有名です。

五祖弘忍の元で修行をしていた首座(弟子頭)の神秀が、

寺の壁にこんな偈を書きました。

 

身是菩提樹 この身は悟りの樹

心如明鏡台 心は澄んだ鏡台の様だ

時時勤払拭 いつも努力して綺麗に保ち

莫使染塵埃 汚れが付かない様にしよう

 

これに対し寺の米搗き(精米係)で文盲の慧能は、

人に頼んでその偈を読んでもらい、

その横にこう書いてもらいました。

 

菩提本無樹 悟りの樹など元々無い

明鏡亦非台 澄んだ鏡も台も無い

本来無一物 本来無一物

何処有塵埃 どこに塵埃が有るのか

 

この偈を五祖弘忍が認めて、

慧能は法を継ぎ六祖となりました。

 

この「本来無一物」をあるお坊さんがNHKラジオで、

「生まれる時も死ぬ時もこの体一つしかない。

地位も財産もあの世には持って行けない。

これを本来無一物と言う」

と解説しておられました。

 

こう解釈してしまうとこの偈は神秀と同じ様な、

ありふれた道徳的なものになってしまいます。

しかし揚げ足取りをしたのではありません。

ここは本当に大事なところだと思うのです。

 

 

 

法身覚了無一物 法身を覚了すれば無一物

本源自性天真仏 本源自性は天真仏

 

眼には今映っている物しかありません。

耳には今聞こえている音しかありません。

匂いも味も感触も同じです。

他に何もない。

 

そして次の瞬間にまた別の「それ」があるだけです。

その「それ」がある時にはもう前の「それ」はありません。

これがこの世界の本当の姿です。

しかし思考は前の「それ」を記憶していて、

頭の中に架空の世界を作り上げます。

それは人それぞれ皆違い、

それが苦しみや争いの大元になります。

 

 

 

「無一物」は「無尽蔵」と同じだと言います。

何も持たないから全てがある。

道元禅師は「放てば手に満てり」と言いました。

どんな事が起ころうとも「日日是好日」と言います。

目も耳も何も所有せず、

過去も未来もなくただ今があるだけだからです。

 

頭で記憶している知識や事象で世界を頭の中に想像し、

善悪損得美醜の判断を加えれば、

それはこの現実という事実から離れます。

この「本来無一物」という言葉は、

ただ事実だけに触れる事が大切だと言っていると思います。

白隠禅師の渡し守りの絵にはこう書かれていました。

 

「よしあしや こきはなれたる わたしもり」

 

水辺に生えるヨシはアシとも言います。

渡し守りはそこを漕ぎ離れて彼岸に渡ります。