憲法語言論 日本人の罪意識 2018年5月7日
穂積陳重『法窓夜話』「80罪の語義」より
 戦争犯罪というときの「罪」はどう理解すればよいのか。日本では戦争が裁かれたのは東京裁判だけで、しかも、外国人に裁かれたので、あれは押し付けられた裁判で、正当ではないという主張があります。カテゴリーをA級、B級などとわけるのも承服しがたい。あまりにも政治的だ(勝者の裁き)だという主張だけが記憶されてきました。
 当時の日本側の主張は、戦争は戦争であって、犯罪ではないという理解です。今日でも民間人戦争被害者への補償の訴訟があるたびに、国側は「国家無答責」(国には責任はない)という立場を崩しません。しかし東京裁判では日本の戦争は、東条英機元首相を始めとする、日本の指導者28名が、「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」した「侵略戦争」を起こす「共同謀議」を「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて行ったとして、平和に対する罪(A級犯罪)、人道に対する罪(C級犯罪)および通常の戦争犯罪(B級犯罪)の容疑で裁かれた(Wikipediaより)。共謀罪で裁かれているのですね。戦争は戦争だとどうなるのか。反東京裁判の支持者は、正義をかけた戦いなので、道徳的にも罪ではないし、刑法的にも違法ではない。そういう主張のようだ。これでは謝罪も反省もできない。国のために忠誠心で戦ったことは名誉なことで、たとえ敗北しても、正当だと思っているのです。
 前置きが長くなりました。80話、穂積は罪の語源を検討しています。本居宣長はじめ諸説あるとしながら、伊藤貞丈の「つめる」説に注目します。「膚を摘み、痛むるより起る詞なるべし」。継母の子どもいじめを上げ、その罪深さを想像していますが、それは物理的な痛さ以上に罪深いと穂積は指摘しています。
 ただ、西洋風に良心の呵責というとき、「心が痛む」という感覚にあらわれます。その反応があるのが自然なのですが、いじめでも良心の呵責がない場合、「膚を摘み、痛む感覚」も、罪の自覚には必要なのかもしれません。でも人に命令されるよりも、自分で心を伴って、なされるべきで、それの出来ない人は、人にお願いするしかないのでしょう(実行するよりも痛みの共通感覚を持つことが大切です)。
 戦争裁判については、いかに指導者であっても、死刑はあってはならないと考えます。裁かれる側の罪の自覚と更生が最も大切だからです。