選挙、選挙って言っているけど、「議員」って何?それこそ選挙前には聞けませんよね。ネットで調べても詳しいことはわかりません。言いたいのは立憲主義を実践するのがすべての議員の使命だということなのです。

 それで歴史的な源流から辿ってみようと思ったのです。未来像も書きましたがそれは後に回します。「議員とは何か」、ほとんどの人は、明治の自由民権運動くらいから調べるようです。私は日本の近代国家建設、とくに議会の開設がなぜ権利の擁護に進まなかったのか、あるいは今でも進まないのか、という無念さがあり、それでは何のための西洋文明受容かわからない。それでいっそのこと、それぞれの時代、議会、議員とよばれる働き、しくみはどのようなものであったかを確認していきたい。権利に携わる議員がどこから生まれてくるのか、万人の権利保障が主流にならないのは、なぜかを考えてみたいと思います。

 私は自由民権運動からではなく、幕末史から調べ始めました。どこかに議会の源流があるはずです。そこから日本人の中に議会らしきものがどう受容されたのかをたどりたい。ひとつ見つけました。幕府独裁政権が決定的に変わる事件、それは1853年「ペリーの来航」でした。このとき、老中阿部正弘は天皇や島津斉彬、松平慶永、徳川斉昭に相談しました。幕府が国の内外を問わず、だれにも相談せず決定していたから幕府独裁政権から対外的には攘夷主戦論(鎖国の継続)でありながら、国内的には雄藩(有力藩)連合政権(後に大名会議政権)へと阿部はスタンスを移します。

 そして相談の結果、翌年1854年横浜でペリーと日米和親条約を結びます。これは幕府は鎖国は継続、ただし燃料・食料の補給に2港を開くというものでした。アメリカは領事館設置や後の貿易条約が成立した際の最恵国条項の書き込みの約束をとりつけます(それが、いわゆる第1回相談での決定事項でもありました)。ここまでがいわば、「最初の相談政治、雄藩合議政権の実績」です。

 だが将軍家定が1858年没。その跡継ぎ問題が浮上する。阿部正弘は前年1857年病死。斉彬は家定と同じ58年8月に病死。跡継ぎ問題は相談組が推す一橋慶喜とはならず、幕府独裁派の大物、井伊直弼の推す、16歳の徳川慶福が14代将軍家茂となります。その直後ハリスと井伊の間で日米修好通商条約です。

 全国各藩の尊王攘夷派、斉昭や残った相談グループ(慶永や慶喜=天皇を立てた開国派)は勅許がないと反発、それを井伊直弼は処罰する。1859年、いわゆる安政の大獄です。あれっ?と思われる方がおられると考えて、注釈を入れます。ここで教科書にはさりげなく、長州藩のいわゆる尊王攘夷派の吉田松陰と越前藩の橋本佐内を並べて処刑されたと書いています。教員泣かせ、生徒泣かせです。安政の大獄で処刑されたのは、尊王攘夷派だけでなく、松平慶永の越前藩の開国派論客橋本佐内をはじめ、まじめに開国の準備を進めようとしていた役人たち(ハリスと交渉に当たっていた目付の岩瀬忠震ら)も処罰されたのです。

 そのことから、井伊の意図がわかります。井伊直弼は阿部正弘のような相談政治以前の鎖国時代の幕府独裁に戻そうと尊王攘夷派も開国派もどちらも処罰したのでした。ここがややこしいところです。そして井伊は1860年、尊王攘夷派水戸藩浪士に桜田門外の変で暗殺されます。同年徳川斉昭も病死。相談後の政治で生き延びたのは、孝明天皇、松平慶永、一橋慶喜、18歳の将軍家茂などとなります。このうち後の動きから、孝明天皇と将軍家茂が鎖国時代の幕府政権がよかったのにと考えていたと推測されます。尊王攘夷派は外国と戦争と考えているが、幕府や天皇は鎖国がよかった。積極的に開国するふりをしておけというわけで、どちらも相手を理解しようという姿勢は薄いわけです。実際の開国の業務を担当している人たちは、積極的に動けません。
 
 どうすればよかったか、私が最初の本格的「議会人」(「議会人」とは会議に公募状態で提案、審議の上それを決定する人という意味です。ここでは、長井は建白書提出に基づく藩内合議、公武合議による開国政策の決定者となります。実行する前に失脚しますが)と考える長州藩の長井雅樂ナガイウタだったら、内外ともに殺し合いにならず、幕府独裁制から雄藩(大名)合議制に変われたかもしれないと思いました。でも歴史はそうは進みません。今回何も進みませんでしたが、補足したら、書き直しになりました。次回は子どもたちから大人が一番よく聞かれて困る質問。なぜ新撰組は京都にいるんですか。から続けます。何枚も同じ写真をとっているようで、お詳しい方、申し訳ありません。