(はじめに・・・)
京極夏彦さんに全く興味のない方、長い文章は苦手な方、時間がない方、めんどくさがりな方は、どうぞ、このまま読まずにスルーされた方が賢明だと思います(爆)


久しぶりに百鬼夜行シリーズを再読してみました。

今回読んだのは、京極夏彦著「塗仏の宴(ぬりぼとけのうたげ)-宴の支度・始末-」の2冊です。

京極堂が活躍する百鬼夜行シリーズの第六弾!

のろのろブログ-塗仏の宴
のろのろブログ-塗仏の宴


(あらすじ)
昭和二十八年春。小説家、関口巽の許に奇怪な取材依頼が齎された。伊豆山中の集落が住人ごとに忽然と消え失せたのだからという。調査に赴いた関口に郷土史家を名乗る和装の男が嘯く。—「世の中には不思議でないものなどないのです」。男が現出させたこの世ならざる怪異。関口は異空間へと誘われるのか?六つの妖怪の物語で、「宴」の「支度」は整い、その結末は「始末」にて明らかとなる。

約2ヶ月くらい掛けてゆっくり読みました。

「塗仏の宴」は、京極ファンにとって嬉しいくらいに分厚い(笑)しかも!厚いだけでなく上下巻に別れる大長編。


正直、京極ファン以外は読めないんじゃないだろうか?w


上記あらすじの中に、

「世の中には不思議でないものなどない」

の言葉があります。京極堂の有名なセリフ・・・

「世の中に不思議なものはない」

言葉は似ているものの、正反対のセリフです。


そう、京極堂に匹敵する力と技を持つ人物の登場がこの話のメインなんです。


事件・・というかゲームは、京極堂を強く牽制しながら巧みに、そして複雑に進行していきます。

登場人物の多さと難解さは、他の話以上のボリュームがあるが故に、物語のクライマックスである京極堂の憑きもの落としは、落とす・・というよりは「謎の開示」役に徹していたような気がしてならない。


これだけ、京極堂の影が薄かった作品は初めてです。


「姑穫鳥の夏」の中で見せた、あの絶対的ともいえる京極堂の存在感が薄く感じた理由は、ひとえに堂島大佐の存在の大きさ故だと思います。

ゲーム(事件)の傍観者である京極堂の言葉は、そのゲームの当事者たち(読者も含めて)にとっては効果的でした。

間違いなく、そして見事に!あれだけ複雑だった「謎」は解体され、「?」ばかりだった人達の憑きものは落ちた。


しかし・・・

作品の中で京極堂は、終始「堂島」だけを見ていた気がしてなりません。


京極堂と堂島の直接対決は、物語のクライマックスのわずか8頁(ページ)だけ。1248頁もある中のわずか8頁www

しかも、この短い中でわかることは、二人の概念認識力は世間を超えてる?(笑)ってこと。そして、同じ認識で共通しているってこと。

「人はどんどん駄目になる・・・」

ただ、傍観者として流れに任せるか?観察者として流れに干渉するか?の差でしかない。しかもそれを、愉しむか愉しめないかの差とも言っています。

堂島は最後に一言、京極堂に言います。

「今後は一切の手出しは無用だ!」

京極堂と堂島との直接対決が見たい(というか、読みたい!)と思うのは、ファンとしては当然だと思う。


初めてこの物語を読んだ時、次からの展開にワクワクしました!しかし・・・


未だ、対決はおろか、堂島の名前すら出てきませんwww


ファンの方々のレビューを見ても、京極さんは行くとこまで行ってしまった(爆)という感想を書いている方が多いwww

うん、僕もそー思います(猛爆!)


前作「絡新婦の理(じょろうぐものことわり)」で見せた、あの存在感の大きな織作茜を「支度」のラストで殺してしまう荒業といい、京極堂の技を仕込んでいるという少年・笙(しょう)の存在といい、清明桔梗の五芒星とドーマンの六芒星の対峙の構図といい、そこまでしても堂島というキャラを登場させたかったという意図が見える今作品!!!


多忙の京極夏彦さんが、再びこの問題?に取り組んだ先には、おそらく凄い話が待っている(だろうw)!

そういう読者からのプレッシャー故に、今頃京極さんは後悔しているのかもしれませんが(超爆ww)

石ノ森章太郎さんの「サイボーグ009」同様、京極さんが生きてる内に完結編を読める日はこないかもしれない・・・

そう思わずにいられなかった「塗仏の宴」の読了でした爆弾

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