- 白虎隊予備知識(^^ゞ -
白虎隊は15歳から17歳までの武家の男子で構成された予備兵力部隊です。白虎隊の他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊などがあり、全部の構成人数はおよそ340名でした。

白虎隊士中二番隊の構成は、隊長・日向内記、小隊頭・山内弘人、水野勇之進、半隊頭・原田克吉、佐藤駒之進の計6名が成人で、隊士は37名。




食料を調達してくると云った日向内記隊長と別れた白虎隊士中二番隊は、降りしきる雨の中で隊長の帰りを待っていました。しかし、明け方になり銃声の聞こえ始めた中に在って痺れを切らした隊士たちは、隊長の帰りを待たずに進軍を始めました。

夜明けとともに新政府軍は、砲撃を始めました。白虎隊にとって初陣の時がやってきたのです。新政府軍の持つ新式の武器の前に、旧式の先込めヤゲール銃を使いながら、なおも激しく応戦。戸ノ口原を守備していた敢死隊・奇勝隊などと共に必死に応戦しましたが、新政府軍の攻撃にはかなうわけもなく、白虎隊も多数の死傷者を出しながら、後退しました。




この戦闘の最中、成人である小隊頭や半隊頭とはぐれてしまった白虎隊は、若い篠田儀三郎(しのだぎさぶろう)が隊の指揮を執りながら強清水へ向かう。滝沢不動の近くまで来たところで、敵と遭遇して銃撃を受ける。彼らは疎水の中に身を潜めると、そのまま暗い洞門(猪苗代から会津へ水を引くためのもの)を通って飯盛山のふもとに出ました。







懐かしい飯盛山に来て、あともう少しでお城だと安堵したところで、目に飛び込んできたのは、お城を取り巻く黒煙でした。怪我と空腹、そして疲れの中で見た景色は、少年達には炎に包まれたお城に見えたのだと思います。正確には、新政府軍が城下に進軍して屋敷に火を放ち、お城の周りを黒煙が包んでいただけで、お城が燃えていたわけではありません。しかし、少年達にはそう見えたのだと思います。

ぎりぎりの精神状態の中で、お城に戻ることだけを頼りに飯盛山まで帰還した白虎隊の少年達は、「お城が落ちたのならば最早これまで、遅れを取ってはならぬ」と考えたのでしょう。「武士の本分を全うしよう」と野村駒四郎(17歳)がみなに提言し、一同はこれに賛同すると、石田和助(16歳)が腹に短刀を突き刺して自刃しました。そして残った少年達も先を急ぐかのように逝ったのでした。







自刃を決行した隊士の中で唯一、生き残った隊士がいました。飯沼貞吉(16歳)。彼も手首を切りましたが死に切れず、息があるところで足軽・印出新蔵の妻に助けられました。一人生き残り、しかも、お城がまだ無傷だと知らされた時の、彼の気持ちはどのようなものだったのでしょうか?(T_T)

しかし、この飯沼貞吉の証言によって、飯盛山での白虎隊の悲壮劇が後世に伝わったのですから、運命というのは皮肉なものですね。

また、戸の口原からの敗走途中に、農家で草鞋を貰い受けている間に仲間とはぐれた庄田保鉄ら数人の隊士は、何とか鶴が城内へと帰還することができました。その後彼らは、生き残った白虎隊士中一番隊と共に白虎士合同隊として西本丸を守りました。





(白虎隊後記)
その後、飯沼貞吉は省内の電信技士として維新後を生き抜きました。飯盛山での出来事については一切を語らずに過ごした彼は、晩年になって初めて飯盛山での出来事を語ったのだそうです。つまり白虎隊士中二番隊の最期の様子は、そのとき初めて世間の知るところとなったわけです。1931年、彼の人生は79歳で幕を下ろしました。遺骨の一部は、彼の遺言によって飯盛山に眠る同志の元へと埋葬されました。

日清戦争の折に電信技師としてソウルに渡った時の彼の逸話が伝えられています。それは、ピストルを携帯するよう云われたときのこと。「自分は白虎隊として死んだ身である」と云って断ったのだそうです。


幕末つながり・・「坂の上の雲」テーマ曲フッ


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≫≫ 白虎隊③【七卿の都落ち】
≫≫ 白虎隊④【禁門の変】
≫≫ 白虎隊⑤【大政奉還】
≫≫ 白虎隊⑥【王政復古の大号令】
≫≫ 白虎隊⑦【小御所会議】
≫≫ 白虎隊⑧【鳥羽・伏見の戦い①】
≫≫ 白虎隊⑨【鳥羽・伏見の戦い②】
≫≫ 白虎隊⑩【奥羽列藩同盟①】
≫≫ 白虎隊⑪【奥羽列藩同盟②】
≫≫ 白虎隊⑫【十六橋】
じーっ白虎隊⑬【会津の一番長い日①白虎隊自刃】
≫≫ 白虎隊⑭【会津の一番長い日②西郷一家自決】
≫≫ 白虎隊⑮【会津の一番長い日③会津篭城】
≫≫ 白虎隊⑯【会津降伏】
≫≫ 白虎隊⑰【その後の会津-斗南藩へ-】
≫≫ 白虎隊⑱【おわりに】

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