人生意気に感ず「ふるさと塾で井上成美を熱く語った。三国同盟に反対し海軍兵学校長としての井上の真実 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「ふるさと塾で井上成美を熱く語った。三国同盟に反対し海軍兵学校長としての井上の真実

◇今回のふるさと塾は大変盛況で大きな成果が感じられたが非常に疲れた。後半、立っているのが辛い程でこんなことはかつてなかったことだ。午前一時に起きて休まなかったことが響いたと思われる。井上成美(しげよし)につき何をどう語るかに心を砕いた。成美の名の由来は論語の君子は美を成す、立派な人は美、つまり良いことを成すである。ある歴史家は彼を異常なまでに清冽でまた苛烈な性格の武人と評した。私は主に彼が三国同盟に強く反対したこと及び江田島の海軍兵学校校長として特色を発揮したことを説明した。三国同盟を説明するためにホワイトボードにヨーロッパの地図を描いた。パワーポイントで既成の地図を表示するより人々はこの方にずっと興味を示す。ドイツ、イタリア、ポーランド、そしてフランス・イギリスなどを中心に描いた。ドイツがポーランドに侵攻したのが1939年9月1日、そして9月3日に英仏はドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まった。ドイツは破竹の勢いであっという間に英米を除く全ヨーロッパを征服してしまう。バスに乗り遅れるなという世論が沸騰した。井上は山本五十六、米内光政と共に強硬に三国同盟に反対するが抗しきれず1940年遂に同盟は調印に至り翌1941年12月8日真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まった。

◇井上が江田島の海軍兵学校校長になったのは1942(昭和17)年である。画期的な教育方針を大胆に進めたがその典型は英語教育の推進である。日本全体は敵性語として英語を排除した。野球でも「ストライク」、「ボウル」でなく「いいたま」、「だめ」という始末。2千5百人もの生徒に英語を徹底することは国賊として非難されたが井上の信念は動かなかった。勝っても負けても英語は不可欠と信じていた。実は彼は、敗戦は必至と読んでおり、戦後の大変な社会を生きる若者のために英語が必要だと考えていたのだ。井上は、士官に必要なものは一般の教養で、自由裁量によって判断する場合に求められるものは一般の教養なのだと考えていた。井上は敗戦後横須賀の海が見える丘に引きこもり子どもたちに英語を教えて過ごした。極貧の生活に甘んじて周りから強い勧めがあっても二度と世に出ようとしなかった。戦争への歩みを止めることで出来なかった自責の念からであった。多くの生徒が真剣に聴いてくれたことが何よりもの栄養剤であった。終了後、現在の政治不信を憤慨する建設的な発言がいくつもあり、この塾の意義を感じた。(読者に感謝)