シベリア強制抑留 望郷の叫び 最終回 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 最終回

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 塩原さんは桟橋を数歩進んでくるりと向きを変えると、こちらへ向かってゆっくりと歩みを進め、この一歩ですと言って桟橋から岸壁の端に足を下ろした。

「高鳴る胸の鼓動を抑えて桟橋を渡り、ここで祖国の大地を踏みしめた時のあの感動は、今でもはっきりと覚えています。ちょうど我が家の庭先に入った感じがして、あの時ほどの安心感は二度と味わうことはないでしょう」

 やや興奮気味に話す塩原さんの瞳は若者のように輝いてみえた。

 その夜、私たちは、舞鶴港のとあるホテルでカニをつつきながら酒を酌み交わしていた。二人の老人は、半世紀前のシベリアの抑留生活が幻のようだ、そして、日本の戦後の復興も夢のようだ、この豊かさを知らずにシベリアで死んだ多くの同胞を想うと胸が痛むと、しみじみと語った。

「スターリンに感謝状を書くほどに、なぜ民主運動は盛んになったのですか」

「日本人には団結心が生まれなかったので、本当に助け合うことができなかったのでしょうか」

 塩原さんはグラスを口に近づけながら振り返った。

 塩原さんは以前にも、語ったことがある。私が、日本人はドイツ人の捕虜と比べ従順で奴隷のようだったと聞くが、なぜかとたずねたのに対し、日本軍人は階級制度が激しくあのような状況で団結心が沸かなかったためと思うと答えている。

「団結心が沸かない」というのはどういうことか。日本軍は鉄の結束を誇った。それを維持したものは冷厳な階級制度と上官による厳しい鍛錬であった。私的な制裁は禁じられていたが、軍事隆医を養うということで何かというと殴った。そのようなしごきによって世界に誇る無敵な軍人をつくることができると軍全体が確信していた。その目指すところは、天皇のため、国を守るため、ということであるが、外からの強い力によって人を動かそうとすると、人の心に真の力が育たないのだ。そして、軍が瓦解し、天皇の権威もなくなると、人々を動かしていた外からの力もなくなった。

 シベリアの日本人捕虜は、魂を失ったような状態で過酷な環境の中に放り込まれた。そして、ソ連のなすがままに何でもする奴隷のような日本人になっていった。その一つの表れが「民主運動」であった。

 「民主運動」が掲げた社会主義の理念自体は、一つの理想であり、多くの人々を動かす魅力を持ったものといえるが、収容所のほとんどの日本人は、これをよく理解できず、ただ帰国した一心で運動に盲従していた。あのような過酷な状況で運動に参加した日本人の心情は痛いほど分かるが、日本人を運動に駆り立てた要素あるいは背景には、日本人の心理的特性や日本の文化の特色があるものと思われる。このことを今、見つめることが、抑留者の犠牲や苦しみを今後の日本及び日本人のために生かす上で重要なことである。

 私たち日本人は、孤独や淋しさに弱い。そしてまわりの仲間と同じ行動をとらないと不安を感じる。これは、日本人が農耕民族として、また、島国で他民族との交流もない村社会の文化の中で生きてきた結果、個人としての自立が養われていない結果だと思われる。だから日本人は、一つの方向、一つの理念でまとまったときは強い力を発揮するが、一人一人が自分の価値観で動くことは非常に苦手である。二人の老人は、日本の戦後の復興は夢のようだと語ったが、自覚した個人に支えられることのない物質的な豊かさは幻のように瓦解する危険性を孕んでいる。

 戦後、世の中は百八十度転換し、日本は世界でも最も理想的部類に属する民主憲法を手に入れた。その中枢をなすものは、人間の尊重、即ち個人の尊重である。しかし、その前提である個人の自立は実現しているとは言えない。

 戦後社会において、自由を声高に叫び、民主主義一色の流れが続いてきたが、その姿はシベリアの「民主運動」と共通な面がないとは言えない。今こそ、個人の自立を重んじた真の民主主義を確立させなければならない。シベリアの民主運動は、今、私たちに大きな歴史的教訓を突きつけているといえる。

終わり