シベリア強制抑留 望郷の叫び 一七二 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一七二

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 かくして、引揚げに伴う混乱は次第におさまってゆく。

 塩原さんの帰国は、このような騒ぎのあった翌年、昭和二十五年二月のことであった。このときは、舞鶴港での引揚げ業務も順調で、東京駅では、誰に邪魔されることもなく、家族をはじめとした出迎えの人たちとの涙の再会を果たすことができたのである。

 平成十六年十二月二十一日、小雨が降る中、私は塩原眞資さん、青柳由造さんと共に舞鶴港の引揚げ桟橋に立っていた。この桟橋は、二人の老人がかつて、引揚船から第一歩を印したそれではない。昔をしのぶために、桟橋の一部を新しく造ったものだ。二人の元抑留者は、静かな海面と雨に煙る湾内の光景をじっと見詰めて立ち尽くしている。

「ボラがいっぱいはねていて、私たちの帰国を喜んでいるようだった」

青柳さんがぽつりと言った。

「ここに夜着いて、朝目を覚ますと、あのあたりの松や竹の緑が、それはそれはきれいでした」

 塩原老人は、前方の小高い山を指して感慨にふけっている。

「上陸を目前にした心境はどんなだったですか」

 私がたずねると、塩原さんはそれまでの深刻そうな表情を急にくずし、懐かしそうな笑顔になって言った。

「実は、日本に上陸したら、共産党の応援ぐらいはしなければと思っていたのです。そしたらこの湾内に、夕焼けこやけの赤トンボー、追われていたのはいつの日か、とあの童謡が海面を伝わって流れてきたのです。この静かな日本の海が私たちを迎えて優しく歌っているようでした。それを聞いたら、そんなことはすっかり私の心から消えてしまって、私は、いっぺんに日本人の心になってしまいましたよ」

 塩原さんは、ハンカチを取り出して目頭を拭いている。

「世の中、変りましたなあ、本当に夢のようですよ。あのあたりには、崩れそうな小屋が並んでいましたよ」

 青柳さんの指す方向には、近代的な高層のビルが並んでいる。

つづく