シベリア強制抑留 望郷の叫び 一七〇 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一七〇

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 瀬下龍三はその回顧録で次のように述べている。

「浅原グループに対しては、二十代の若い人たちが本気で、海にぶん投げようと相談していたが、彼らにも親兄弟がいると言って指導し船内事なきを得た」と。

 引揚船上のトラブルは、年により、また「民主化」された人たちの大小によっても様相を異にした。「民主グループ」の力が大きい船内では、日本海の上でも吊し上げがあったという。

 日本へ上陸した後も混乱があった。特に著しい騒ぎは昭和二十四年以降のことである。それは、昭和二十三年頃から「民主運動」の嵐が激化する中で、洗脳され、筋金入りの共産主義者になった者も多かったからである。

 舞鶴港では、スクラムを組んだ上陸、日本共産党のために資金カンパ、虚偽の申告、沈黙戦術、診療拒否など、さまざまなトラブルがあった。新聞はこの様子を各社とも大きく取り上げ日本中が注目した。

 舞鶴で取材した記者は、引揚者が自分の祖国はソ連同盟だと語ったことに驚いている。 

 騒ぎは引揚げ列車と共に京都、東京と、各地に広がる。

 昭和二十四年七月三日の各紙には「当てが外れた歓迎陣・肉親が無理に汽車へ」「家族や出迎人を置き去り赤い行事へ直行」などの記事が大きく踊る。いずれの記事も、出迎えの家族を振り切って共産党の大会に向かう品川駅の引揚者の行動を書いている。

 読売新聞は、駅の光景を次にように伝える。

「訓練された赤の精鋭たちはこれを迎えるにふさわしい赤旗の嵐の中に降り立った。ゴッタ返すホームの中央では、久しぶりに見る我が子を抱いて涙にむせぶ老母と言葉もなく手を握り合っている中年の夫婦者がいる。しかし、突然労働歌が爆発し、上野駅前で日本共産党の歓迎大会が行われるぞと伝わると引揚者たちは家族を振り切って再び上野行きに乗り込んでいった」と。

つづく