シベリア強制抑留 望郷の叫び 一六七
※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。
万国勤労者の師父、敬愛するイオシフ・ヴィッサリオーノヴィッチ・スターリン万歳!
この感謝状の中で重要な点は、最後の宣誓の部分である。この分は日本人が自主的に作った形をとっているが、ソ連の指導の下に、また、ソ連の意をくんで作られたことは間違いない。ナホトカで帰還船に乗るとき、署名しなければ乗せないと、ソ連軍将校に言われたという証言の存在はその間の事情を物語るといえよう。
ソ連とすれば、日本人が帰国後に感謝状で宣誓した通り共産党を支持する行動をとるかどうかが一番気がかりなことである。だから多くの日本人に秘密の誓約書を書かせた。その内容は、帰国後、ソ連情報機関の指令の下で働くこと、このことは口外しないこと、約束を破った場合はいかなる処罰を受けても異存はない、というものであった。ソ連の恐怖が身にしみている日本人は、約束を破れば、殺されるか、ソ連に送り返されると本当に心配したらしい。
とにかく、「民主運動」は、洗脳の効果、痛めつけられた者の恨み、「約束」の重圧など、さまざまな負担をソ連の港を離れた後も長く日本人に課すことになった。そして、このことは、帰還船上のトラブル、舞鶴港上陸後の大きな混乱へとつながるのである。
この文章が書かれたのは昭和二十四年五月である。このころ、日本人収容所のうち短期抑留組の本格的な帰国が行われていた。そして、この帰国は翌昭和二十五年の春で一応完了するが、長期抑留者はこの後も長くシベリアに留まる。「限りなき長寿を」と感謝状で書かれたスターリンは、昭和二十八年三月に死んだ。スターリンの死は、限られた情報しか入らないシベリア中の収容所に瞬く間に広がり、収容されていた人々は、「ヒゲが死んだ」と言って喜んだ。厳しい収容所の環境に変化が起こることを誰もが期待したのである。
つづく