シベリア強制抑留 望郷の叫び 一五七 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一五七

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

「(抵抗運動のことを)ソ連の公文書を読みながら、捕虜の身でスターリン体制に捨て身の抵抗を挑んだサムライたちのドラマは、日本研究者である私にも新鮮な驚きを与えた」

 この文から、羊のように従順で、奴隷のように惨めで骨のない日本人と言われていたが、シベリア全体から集められた資料によれば、各地の収容所で様々な抵抗運動を起こしていたことが分かる。しかし、それらの多くは突発的なものであって、計画的あるいは組織的なものではなかったと思われる。そこで彼が最も注目するサムライたちの反乱がハバロフスク事件であった。

 アレクセイ・キリチェンコは日本人抑留者の最大のレジスタンス、ハバロフスク事件に特に触れたいとして、次のように述べる。

「これは、総じて黙々と労働に従事してきた日本人捕虜が一斉に決起した点でソ連当局にも大きな衝撃を与えた。更に、この統一行動は十分組織化され、秘密裏に準備され、密告による情報漏れもなかった。当初ハバロフスク地方当局は威嚇や切り崩しによって地方レベルでの解決を図ったが、日本人側は断食闘争に入るなど闘争を拡大。事件はフルシチョフの元にも報告され、アリストフ党書記を団長とする政府対策委が組織された。交渉が難航する中、ストライキは三ヶ月続いたが、結局内務省軍二五〇〇人がラーゲル内に強行突入し、首謀者もほとんどなかった。スト解除後の交渉では、帰国問題を除いて日本人側の要望はほぼ満たされ、その後、労働条件やソ連官憲の態度も大幅に改善された。五十六年末までには全員の帰国が実現し、ソ連側は驚くほどの寛大さで対処したのである」

 これらは、既に述べた石田三郎を代表とする日本人の闘争をソ連側の資料から見たもので、両方からの見方が一致していることを示している。

 そしてこの論文は、最後の日本人の「特性」について次のように述べている。

「極寒、酷寒、飢えという極限のシベリア収容所でソ連当局の措置に抵抗を試みた人々の存在は今日では冷静に評価でき、日本研究者である私に民族としての日本人の特性を垣間見せてくれた」

つづく