シベリア強制抑留 望郷の叫び 一五四 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一五四

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 瀬島龍三は、その回顧録で次のように述べている。「この闘争が成功したのは国際情勢の好転にも恵まれたからであり、仮にこの闘争が四、五年前に起きていたなら惨たんたる結果に終わったかもしれない」

 このハバロフスク事件は、昭和三十年十二月十九日に発生し、ソ連の武力弾圧は、翌年三月十一日のことである。この間、鳩山内閣によって、日本人収容所の運命のかかった日ソ交渉が行われていた。首相鳩山一郎が自らモスクワに乗り込んで、日ソ交渉をまとめ、日ソ共同宣言の調印が行われたのは、昭和三十一年十月十九日のことであった。この宣言の中で、この条約が批准されたときに日本人抑留者を帰国させることになっていた。そしてこの年十一月二十七日、条約案は、衆参院本会議を通過した。ソ連はただちに動き、最終の帰国集団、一千二十五人の抑留者を乗せた興安丸はナホトカを出港し、十二月二十六日舞鶴港に入港した。

 ハバロフスク事件の責任者、石田三郎の姿もその中にあった。一足先に帰国していた瀬島龍三は、平桟橋の上で、石田三郎と抱き合って再会を喜びあった。死を覚悟して戦った日本男児石田三郎の目に祖国の山河は限りなく温かく映った。

つづく