人生意気に感ず「岩田亀作さん105歳の人生。戦場で示した人間の良心。毒薬を土に埋めて」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「岩田亀作さん105歳の人生。戦場で示した人間の良心。毒薬を土に埋めて」

◇岩田亀作さん死すの報告があったのは26日の午前である。ああ遂にと思った。105歳であった。「俺が死んだら中村さんに知らせて欲しいと言われていたので」と娘さんの声であった。私は弔辞を述べる決意をした。かつて私は約束した。「亀作さん、百歳まで頑張って下さい。私が弔辞をやりますから」と。訃報と共に、ニューギニアの過酷な戦場が甦った。「生きて帰れぬニューギア」と呼ばれたのだ。

 第二次世界大戦でニューギニアでは約12万人の死者が出たが、そのうち9,230名が群馬県出身者だった。慰霊巡拝は平成13年10月21日から始まった。巡拝団の構成は県側の小寺知事(当時)、県議会は副議長の私、その他遺族会会長、町村会長等であった。実はこの慰霊巡拝には大きな不安が伴っていた。というのは、前の月9月11日に全世界を震撼させたニューヨークの同時多発テロにより世界情勢は日毎に険悪になっていたからである。私は、ダンピール海峡を臨むラエ市の祭壇で弔辞を読んだ。この街には極限の地獄、亀作さんが重傷兵たちの毒殺を命じられた野戦病院の跡地もあった。弔文を読む私の声は震えていた。

 亀作さんが語った数々の出来事。時を越えてその生々しい現実と対面している自分を感じたのだ。あれから23年が過ぎた。世界情勢は大きく変化し再び各地で戦争が起きている。私の中のニューギニアも変化した。私は次のように語りかけた。「亀作さん、あなたの人生が偉大なのは105年という長さではありません。それは極限の苦難の中を人間としての信念を曲げずに見事に生き抜いた素晴らしさの故なのです」

 私はここで亀作さんが示した野戦病院での決断を語った。衛生兵の亀作さんはある時上官に命じられた。「これをマラリアの薬と言って2粒ずつ飲ませよ」と。負傷兵の毒殺命令だった。野戦病院は正に地獄であった。兵士の大腿骨を麻酔なしでノコギリで切断した。玉砕命令は次のように非情であった。「病兵に至るまで立ち上がり斬り、死の覚悟をせよ。生きて捕虜になる者一人もあるべからず。この一点一兵に至るまで徹底すべし」と。亀作さんは冷酷な命令に迷った。命令に従うべきか、人間としての良心に従うべきかの闘いであった。亀作さんは毒薬を土に埋めた。多くの命を救ったのだ。私は遺影に語りかけた。「あなたの決断は人間無視の戦場の中で示した大きな救いでした。安らかにお眠り下さい」と。

(読者に感謝)