シベリア強制抑留 望郷の叫び 一三十九 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一三十九

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

石田三郎は、有効な作戦を立てるため、また重要な問題にぶつかったとき、アドバイスを受けるための顧問団を組織した。その中には、元満州国の外交官や元関東軍の重要人物などもいた。石田はこれらの人に、危険が及ばぬよう名は公表せず、個人的に密かに、そして頻繁に接触したと、『無抵抗の抵抗』の中で述べている。

 顧問団の中には、瀬島龍三もいた。瀬島は、回想録の中で次のように語る。「平素から私と親しかった代表の石田君は決起後、夜半を見計らって頻繁に私の寝台を訪ねてきた。二人はよそからは見えないように四つん這いになって意見を交換した」

 また回想録は、重要な戦略についても意見を交わしたことを述べている。それは、ソ連の中央権力を批判することを避け、中央政府の人道主義を理解しない地方官憲が誤ったことをやっているもで、それを改善してくれと請願すべきだということであった。

 石田三郎たちは、中央ソ連内務大臣、プラウダの編集長、ソ連赤十字の代表等々に請願書を送る運動を展開するが、資料を見ると、その文面は必ず、一定の形がとられている。

 例えば、一九五六(昭和三十一)年二月十日のソ連邦内務大臣ドウドロワ宛の請願書では、「世界で最も正しい人道主義を終始主唱するソ連邦に於いて」と中央の政策を最大限褒め上げ、それにもかかわらず当収容所は「労働力強化の一方策として、計画的に病人狩り出しという挙に出た。収容所側の非人道的扱いに耐えられず生命の擁護のためやむを得ず、最後の手段として作業拒否に出た」だから、私たちの請願を聞いてほしいと述べている。

 また、一九五六(昭和三十一)年一月二十四日のソ連赤十字社長ミチェーレフ宛請願書でも「モスコー政府の人道主義は、今地方官憲の手によって我々に対して行われるようなものではないことを確信し」と表現する。

 これらは皆、瀬島龍三のアドバイスによる中央を持ち上げて地方をたたくという作戦に基づいていることが分かるのである。

 収容所側は、作業拒否に対して、「これは、まさに暴動である。ソ連邦に対する暴動である。直ちに作業に出ろ」と執拗に迫った。そして減食罰などを適用しながら、一方で、「直ちに作業に出れば、許してやる」と言ってゆさぶりをかけてくる。

 予想される収容所の対抗策は、首謀者を拉致して抵抗運動の組織を壊滅させることであった。これに対する防衛策として、石田三郎は各班から護衛をつけてもらい夜ごとに違った寝台を転々とする生活を続けた。

つづく