人生意気に感ず「胡耀邦の失脚。ゴルバチョフの訪問はデモに拍手。遂に戒厳令。死者は1万人以上」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「胡耀邦の失脚。ゴルバチョフの訪問はデモに拍手。遂に戒厳令。死者は1万人以上」

◇天安門の事件の背景の続き。胡耀邦は「百花斉放・百家争鳴」を旗印として掲げた。百花、つまり多くの花が一斉に動き出すことで言論の自由化は一挙に進むかと期待され、胡は国民から開明の指導者と期待された。これに対し鄧小平等保守派が危機を抱いたのは当然であった。言論の自由は人権の中心であり、民主主義の根幹である。これを進めればチベットやウイグルなどに対する人権侵害は続けられなくなる恐れが生じる。言論の自由は必然的にデモの発生に繋がる。北京をはじめ各地で学生デモが起きると保革の対立は激化し、胡は失脚に追い詰められるに至った。警察監視のもと失意の生活を送る中で、1989年4月心筋梗塞で倒れ死去する。胡が死去すると各地で学生の追悼集会が起き、それは日を追って激化し規模も大きくなり遂に4月21日、10万人を超す学生や市民が天安門広場でデモを行うまでに至った。デモ隊の数は更に激増し全土から天安門広場に集まる人々は50万人に迫る。この流れに刺激を与える出来事が生じた。ゴルバチョフの北京公式訪問である。デモ隊の多くはゴルバチョフを「民主主義の大使」として歓迎した。外国メディアの報道姿勢はデモを煽る結果になった。最早収拾がつかない状態である。強硬手段について政権内は割れた。

 最高権力者鄧小平は遂に次のように決断する。「今ここで後退の姿勢を示せば、事態は急激に悪化し統制は完全に失われる。よって北京市内に軍を展開し、戒厳令を敷くこととする」

 地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に集結した。広場へ続く道路で、民衆はバスを横転させ放火し炎のバリケードを作り橋の上からは石やコンクリートブロックを兵士に投げつけた。兵士の中にはデモ隊に巻き込まれ暴行され、撲殺される者もいた。軍はこうした民衆を鎮圧する為に行動を始めた。BBCやCNNは鎮圧の様子を世界に報じ、それは無差別発砲による市民の虐殺として世界中から非難された。天安門広場でどの位の人が殺傷されたかについては様々な説がある。

 事件当時鄧小平は「20万人位の血の犠牲はかまわない。中国では100万人といえども小さな数にすぎない」と述べたと伝えられる。抵抗する民衆の一コマが報じられ衝撃を与えた。1人の若者が戦車の前に立ちはだかったのだ。タンクマン(戦車男)、無名の反逆者として世界に放映された。英・米の公文書では最低に見積もっても一般市民の死者は10,000人以上と報告している。私は日の出前の天安門広場を歩いてかつての惨劇を想像した。(読者に感謝)