シベリア強制抑留 望郷の叫び 一三十四 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一三十四

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 三 日本と世界の情勢はどうであったか

 

 昭和二十年八月の敗戦後、日本国内では新憲法の下、瓦礫の中からの復興が続いていた。生活は苦しくも家族の絆は強く、人々は逞しく真剣に生きていた。

 私の家族が前橋市から移って、勢多郡宮城村の山奥で開墾生活に入ったのは、この昭和二十年の秋、私が五歳のときであった。食料が不足して、毎日、さつま芋、大根、野生のウリッパなどを食べたことが今でも生々しく記憶に残っている。今にして思えば、このころソ連も戦後の物資が非常に乏しい状況にあった。ソ連はドイツとの激しい戦争によって疲弊し、食糧事情も悪く、シベリアの収容所にも十分な食べ物が供給されなかった。このことが収容所の日本人の胃袋を一層苦しめたものと思われる。

 昭和二十二年、私は宮城村の鼻毛石の小学校に入学する。前年に発布された日本国憲法がこの年施行され、民主主義の波が全国を覆っていた。私が手にした教科書は、それまでのものとは一変し、ひらがなが初めて使われ、内容も民主主義に基づいたものであった。

 おはなをかざる

 みんないいこ。

 きれいなことば

 みんないいこ。

 なかよしこよし

 みんないいこ。

教科書の最初は、この詩で始まった。私たちはこのように、教科書の1ページから民主主義を教えられ、また、社会のあらゆるところで、民主主義の芽は育ちつつあったが、ソ連に抑留されていた人々はこのような日本の動きは知らなかったであろう。骨のずいまで、天皇制と軍国主義を叩き込まれた人々が、収容所では上からにわか作りの「民主教育」と称するものを強いられたのである。そこで、帰国したい一心で、形だけの、そして上辺だけの「民主主義者」が生まれていった。このことは、別にシベリアの「民主運動」で取り上げた。

 日本は敗戦後、連合国の支配下に入り、マッカーサー元師の下で占領政策が行われていたが、やがて交戦した諸国と講和条約を結んで独立を達成する時がきた。

つづく