シベリア強制抑留 望郷の叫び 一三十三 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一三十三

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 事件は突発的に起きたのではなかった。このような状況が進む中で、不満は人々の心にうっ積し、過酷な環境は人々をのっぴきならないところまで追い詰めていた。それを物語る出来事がハバロフスク事件の前に起きた。

 監督官の不当な圧迫が繰り返されていた。特に、監督官・保安将校ミーシン少佐は、日本人から蛇蝎のごとく嫌われていた。ある時、彼は零下三〇度の身を切るような寒さの中、日本人がやっと作業現場にたどり着いて、雨にぬれた衣服を乾燥するために焚き火をすると、これを踏み消して作業を強制した。あまりのことに抗議した班長を栄倉処分にしたのである。

 一人の青年がこの理不尽な監督官の扱いに対して、ついに堪忍袋の緒を切って抵抗した。青年は斧で傷害を加えたのである。監督は倒れ、その場に居たソ連人は逃げた。大変なことであった。我にかえった青年は、とっさに近くの起重機に登り自殺を図る。

 起重機の上に立った青年は、腰に巻いた白い布を取って、自らの血で日の丸を描き、それを握りしめて「海行かば水漬屍、山行かば草生す屍」と歌って飛び降りようとする。仲間が駆け上がり必死に止め、こんこんと説得し、青年は自殺を思いとどまった。青年は斧の刃でなく峰で打ったことから分かるように殺意はなかったが、「公務執行中のソ連官憲に対する殺人未遂」として、すでに科されていた二五年の刑に加えて、十年の禁固刑を科され、別の監獄に入れられた。

 なお、山崎豊子の小説『不毛地帯』の中では、この事件をモデルにした部分が描かれている。そこでは、青年は腰の手拭いを取って、自らの斧で手首を切り、その血で日の丸を染め、起重機に縛り付けると、「皆さん、どうか、私がこの世で歌う最後の歌をきいてください」と言い、直立不動の姿勢で、“海行かば”の歌をうたう。死に臨んで歌う声が朗々として空を震わせる。歌い終わると身を翻して二〇メートル下の地上に飛び降り死ぬ、という構成になっているが、事実は、歌をうたい終わった後、死を思い止めたのであった。

 この事件は昭和三〇年六月のことで、ハバロフスク事件はこの数ヶ月後、同年十二月に起きる。きわだって従順と言われた日本人抑留者であったが、このような突発的な犯行は、各地の収容所であったらしい。

 

 

つづく